12月の活動
春の「墨翔とその仲間展」、秋の「大仏書道大会」「風と土のふれあい芸術祭in伊賀」などが恒例の行事となり、9月には怪我で作陶・金継ぎ・茶の湯が中断しましたが、12月には2年振り9回目の「穴窯焼成」を実施することができました。
写真1枚目は、窯詰め(4日間)・窯焚き(6日間)の合宿中の薪ストーブの薪を、仲間と共にアトリエ周辺から伐採して切っているところです。薪割りもチエンソーの目立ても、若い頃にはやる予定の無かった体験です。薪束や棚板を持って作業している私は、20代の頃よりはるかに力持ちになっています!不思議です。苦労することが他にないせいでしょうか、失敗ばかりですが、面白いと思ってやっています。年末、窯焚きから戻ってから、年賀状づくりとお節の準備を始めました。
窯焚き
12月20日(木)朝9:00、第9回目となる「粘土カフェ」穴窯焼成の<火入れ>をしました。(写真1枚目) 木っ端を燃やして、午後9:00までの12時間は100℃以上にならないように、その後も、水蒸気爆発・空気爆発の温度帯まで、さらに12時間(翌日9:00まで)は350℃を目指してゆっくり<焚き火>の様な窯焚きです。
その後はどんどん温度を上げ、2日目17:00頃には、すべての木っ端(60袋)を使い切り、下の焚き口を小さくして空気口とし(写真1枚目)、上の焚き口からの薪の投入となりました。扉の開け閉めの人手が加わります。写真2枚目は、850℃(素焼き程度の温度帯)の窯の中の様子です。20:00頃には、順調に1000℃を超えました。雨が降ったり止んだりで、夜は霧が立ち込める中、薪棚から一輪車で薪を窯場に運びながらの窯焚きでした。
3日目(22日)0:00~朝方までは、お仕事の中、夜中になら!と窯を焚きに来てくださった男性3名のおかげで、これまで少ない時は女性3名(昼間は7名)しかいなかった私達は、寝ることができました。
3日目は、1100℃台で停滞し、16:00頃に1250℃を記録!ただ、この温度帯をキープすることは難しく、4日目も1220℃~1250℃前後の窯焚きが続きました。
嬉しいことに、3日目には陶芸専攻の学生さん2名、4日目には参加者の教え子(高校生)3名の若い力が加わり(写真1~3枚目)、活気に満ちた窯焚きを行なうことができました。私は写真撮影です。この土日は、作品を入れていないのに応援に来てくださった方々も4名あり、窯焚きや薪運びをしてくださって、助かりました。私が<燠掻き>をしているところ(写真5枚目)を撮ってくださいました。夜、雲間の満月を愛でました。
5日目(24日)は最終日、私は前日後半から窯当番に入り、寝るつもりはありませんでしたが、睡魔には勝てず朝方4:30~、2名の方に窯焚きを続けてもらって、アトリエのベンチで仮眠をとっていました。5:00頃、火事です!と起こされて、外へ出ると、煙突近くの窯の屋根から炎が立っており、気が付くと、通常は一人では持たないような脚立を抱えて煙突の方に駈け出していました。3人でバケツで水を何度かかけ、寝ていた2人も起こして、間もなく火は消し止めることができました。
強風のためかと思っていたボヤの原因は、煙突にトタンを巻くのを忘れていた私の過失、安全第一と申し合わせていたのに、申し訳ないことになりました。6時以降は、次々と参加者の皆さんが来て、窯を立て直そうと、最後の窯焚きをしてくださいました。私は、火事場の馬鹿力を出したせいか、水を頭から浴びたせいか、1時間ほど爆睡しました。
写真1枚目は最終の窯焚きの様子、2枚目は窯を閉じる準備をしているところです。前日には、薪が残り少ないことに気付いて13:00に予定していた<窯閉じ>が午前中になるのではないかと思い、少しでも早く来てください!と一斉メールを流しており、すでに残しておいた業者さんから購入した薪40束だけとなっていました。ところが、プロの薪は予想以上にすごくて、薪が減りませんでした。投入すると、窯の中で力強く燃えているのでしょう、その音は全く違っていました!全て燃やしたいという意見もありましたが、それでは暗くなりそうで、、、薪は少し残しても、16:00に窯を閉じることにしました。写真3~5枚目は、閉じた後の様子です。翌日の片づけを含めると、6日間の窯焚き合宿、参加者はのべ56名でした。
窯詰め
第9回の穴窯焼成の「窯詰め」のため、3泊4日の合宿をしました。先ず、2年振りに使う窯の湿気を取るために、12月13日(木)、「あぶり」(写真1枚目)をしました。翌14日は、奥の棚と、中の棚の途中まで詰めました。写真2枚目は、15日の朝に撮ったものです。この日は、中の棚(写真3枚目)と前の棚に作品のほとんどを詰め、16日、棚前に大きめの作品を詰め(写真4枚目)、火袋(入口の脇)に2点の作品を詰めて「窯詰め」は終了です。
この後、焚き口を作りました。(下の写真)もう、中には入れません。
写真は、主に私の作品の「窯詰め」の様子です。赤土(南蛮手の土)で作った小物には藁を巻き、窯の後方に入れました。景色として残ってくれると面白いです。また、火色や灰の掛かり具合がどうなるかと思って、横に傾けて詰めたり、逆さまに詰めたりしました。写真4枚目は、高さ30cmくらいの面取りの筒花入れ、急いで作ったので、水が漏れないように内側に透明釉を薄く掛けています。焚き口側の火袋の脇に置きました。下の方に燠が触れて、焦げができるといいな、と思っています。私はこの度は、大きいものができませんでしたが、数だけは多いので、いろんと実験的な試みができます。
窯から出ると、足はガクガクです。外では、アトリエの薪ストーブ用の材木を伐採して切ってくれる自称木こりマダムのYさん、私がアトリエに戻って椅子に腰掛けた途端に、はい、コーヒー!と言って出してくださる主婦Fさん、調理師免許ありの賄い担当Gさんもいてくださいます。4日間の窯詰め参加者は、のべ21名でした。
文人研究会
中国文学者の福本雅一先生が亡くなって5年が経ちましたが、先生が率いてくださった研究会は、今も、毎月第三日曜に行なわれ、福本先生の遺志を受け継いだ先生方と共に、田上惠一も参加しています。いつもは、先生の別荘(奈良市田原)が会場ですが、12月9日に変更になり、久しぶりに拙宅にお集まりいただきました。
藝文書院(京都)から刊行されている『中国文人伝』は唐から始まり、現在は、第7巻目(宋・金・元)の読み合わせをしているそうです。福本先生は、私に、惠一に気持ち良ーく仕事をさせてやってくれ、とよく言っておられました。お台所で、熱心な問答を聞きながら、おもてなしの準備をするのも、私の愉しみです。
窯の修復
12月2日(日)、穴窯の修復をしました。2005年に法人の造形ワークショップで穴窯を築いてから、13年が経ちました。これまで、外側の修復は毎回しながら、8回の焼成に耐えてくれた窯ですが、内部の床部分の中央が盛り上がり、窯詰めの際に棚板の水平を取るのが困難になっていました。両脇の耐火レンガを何枚かはがして、モルタルと薄い棚板のかけらで修復をしました。若い頃、左官屋さんのバイトをしながら技術を学んだという頼もしいIさんに、こんなもんでどう?と聞かれると、はい、いい感じ!と、私は応えるのみでした。
この日は、穴窯に入れる作品の最終の持ち込み日でもありました。窯いっぱいになるか心配でしたが、前回よりやや少ないものの、参加者32名の大きな壺~豆皿まで、300点ほどの作品が集まりました。
11月の活動
写真は、奈良学園中学1年生の行書による「校訓」です。2学期は行書の学習をしましたが、よくその特徴をわかってくれたと思います。この後、カレンダーに行書の二字句を書き、私が刻した「鴻志(大きな志)」の冠帽印と、「奈良学園」の印を押しました。高校生もカレンダーに、学習した篆書・隷書・草書のいずれかの書体による創作作品を書きました。こちらは、自作の印(篆刻作品)を押しました。
奈良女子大書道部は、恒例になった学祭での書道パフォーマンスと、書展を行ないました。
家では、怪我のためにできなかった分を取り戻したいと思って、食事はシチュー・おでん・鍋の繰り返しで、寸暇を惜しんで作陶をしていました。今回は、面取りに加えて「しのぎ(稜線模様)」に挑戦、時間がないのでタタラ作りの小品が多く、紐作りの大物はできませんでした。ストーブで次々と乾燥させ、素焼きをしました。写真は、水滴・水盂(スプーンですくうタイプの水差し)・印盒・掛け花入れなどです。他に、足付きの菓子皿・水指なども作りました。焼き直しも含めて、100点ほどになりそうです。
般若寺
自宅から比較的近い所(2km程)にある般若寺は、境内一面にコスモスが満開、11月11日まで秘仏「白鳳阿弥陀如来」が特別公開されているというので、出かけました。
写真1枚目は、旧道(京街道)側(お向かいは植村牧場)から撮った国宝の「楼門(鎌倉時代)」、門の奥に「十三重石宝塔」(写真2枚目)が見えます。写真3枚目は「本堂」です。昭和39年に、石塔を修理した際、五重目の軸石から「錦のうちしき」に包まれた小さいながらも精緻な白鳳仏が発見されました。さらに、その蓮台内には「体内仏三尊」が和紙に包まれて納入されていたのです。写真4枚目は、これらの秘仏が安置されている「宝蔵堂」の入口、厳重に閉ざされた扉は、右にある銅鑼を打つと、中から開けてもらえます。一番小さい体内仏(大日如来)の総高は5.2cmだそうです。石塔の中で長い間ひっそりと、奈良の都をお守りくださったのですね。吸い込まれるように目を凝らしていると、自然に有難い気持ちになりました。
奈良女子大学書道部 「墨香展」
11月(金・祝)~26日(月)、学内の「記念館」2階(講堂)にて、書道部の一番大きな行事である「墨香展」を開催しました。1~4回生19名、賛助出品としてOG1名、他大学の学生1名、私を含めて総勢22名、36点の作品を展示しました。
写真1枚目は講堂の正面、2枚目は入口側の様子です。下の段の写真1枚目は、「100年ピアノ」コーナーの小品、2枚目の軸装にした全紙・聯落ち・半切の作品は、主に合宿で書いたものです。3・4枚目は、奈良女の学生らしい作品の一部です。
会場の記念館は、正門・守衛室と共に、国の重要化財に指定されている趣のある建物で、通常は一般公開されていませんが、墨香展の会期中は、ご自由にご観覧いただけ、カメラを持った一般の来館者の方も多くありました。写真7枚目は、会場右側の窓から撮ったもの、東大寺大仏殿、若草山を望むことができます。
作陶会と作品の持ち込み
11月17・18日の土日は、穴窯焼成のための作陶会を行ないました。もっと多く作陶会を企画すればよかったのですが、薪割りに時間がとられていました。このことは、今後の課題です。
18日は、1回目の作品の持ち込み日でした。この作陶会から先に作品を作らない人や、最終持ち込み日(12月2日)に参加できない人の作品を受け付けました。特製のスケールを用いて、占有容積に応じた焼成費を徴収します。たとえば、写真2枚目(作品4点)は、25×25×高25で、6,000円です。これらの焼成費と参加費(1人1,000円)から、モルタル・道具土などの消耗品、備品の補充、合宿中の光熱費・日用品、道具類の修繕費などを捻出します。
乗馬クラブクレイン三重の展示
穴窯の活動などをしているアート系法人の根拠地(MORITAI造形アトリエ、伊賀市伊勢路)から東へ1km余りの所に「乗馬クラブクレイン三重」があり、他に何もない山中での<お隣付き合い>をさせてもらっています。昨年から、乗馬クラブの依頼で、このレストランに法人会員の作品を展示していますが、この夏から私がこの展示担当と
なりました。
写真1・2枚目は、第4期(8月~)展示の一部、芸術祭と作陶会のポスターやチラシも貼らせいただき、ステンドグラス、日本画、私の書作と掛け花入れです。第5期として、11月17日に展示替えをしました。写真3~5枚目は、その一部(写真作品、立体、書、日本画)です。
書道パフォーマンス
11月3日(土・文化の日)~5日(月)、奈良女子大学の学祭が開催されました。初日の野外ステージのトップに、書道部の時間をいただき「書道パフォーマンス」を行ないました。
選曲から用紙の準備などは2回生のパフォーマンス係りが中心となり、3週間ほどの練習期間で作り上げました。部員の有志12名が参加、今回は、部員の友人が三味線の生演奏をしてくださり、一段とライブ感のあるパフォーマンスとなりました。3回生5名は、袴姿です。書き上げた作品は、学祭期間中、吹き抜けになった学生会館に展示しました。
10月の活動
10月は、芸術の秋に相応しい2つの行事に臨みました。1つは、伊賀での「風と土のふれあい芸術祭」、もう一つは、東大寺大仏殿西回廊での「大仏書道大会」です。共に恒例になった私にとっては大事な秋の行事ですが、今年は、一部日程が重なり、片方にしか出れない日や時間帯があり、残念でした。準備を万全に行い、できる範囲の参加をしました。
大学は、10月から後期が始まり、奈良女子大学書道部は、学祭に披露する「書道パフォーマンス」に向けて、放課後暗くなるまで練習をしていました。写真2枚目は、音楽を聞きながら、エアーで書いているところ、入退場などの流れを確認します。3枚目は、下絵の位置を決めているところ、4枚目は、前日のリハーサルの様子です。今年は、背中に黄色で「鹿」と金文の「書」がデザインされたパーカーをお揃いで着ています。
「風と土のふれあい芸術祭」初日20日の夜は、地元の鹿嶋神社(伊賀市霧生)の秋祭りの宵宮でした。写真1・2枚目は、仲間や家族と伺った時のものです。奉納花火の後、獅子神楽保存会の獅子舞や神事が行われ、食べ物やお酒が振る舞われました。昔ながらのお祭りに賑わう山里、子供の頃に帰ったような安らぎを覚えました。
この日は、神社近くの「メナード青山リゾート」に、家族と宿泊しました。翌日は、セージフェスタが開催されているリゾート内の「ハーブガーデン」を散策しました。霧生の里は、四方を囲んだ山間から霧が立ち昇るのでしょうか、ハーブガーデンは、思ったより広く雄大な地形の中にありました。
第9回 大仏書道大会
10月27日(土)・28日(日)、「大仏書道大会 ~書くことは楽しい in 奈良~ 」を開催しました。奈良文化の伝承と創出をスローガンに活動されているNPO法人「奈良21世紀フォーラム」の主催で、9回目となりました。事業内容 募集要項 審査基準
5つのテーマを設け、全国の高校生・大学生を対象に公募した作品から、入選作品100点を東大寺大仏殿西回廊に展示しました。同じく西回廊で、審査委員長 森本長老の講話の後、「席書会」を行ないました。参加者とそのご家族なども一緒に、大仏殿の基壇に登壇させていただき、作品を奉納しました。奈良の地に相応しい書道のイベントのお手伝いができることは嬉しく、遣り甲斐を感じています。
写真は、展示した入選作品の内の一部です。人のまねではないオリジナルなもの、若者らしい言葉、作者の想いが豊かに溢れるメッセージ性のあるもの、表現の工夫が見られるもの、あるいは計算せずに自然に構成された文字や余白が美しいもの、を選んでいます。先生からお手本をもらうと、頑張った、とだけしか感想が出ないようですが、出品票に記載されたいるコメントに、作者の意図や想いが詰まっていると、嬉しくなります。 出品票は、キャプションとして展示していますが、来館者の皆さんに好評です。
風と土のふれあい芸術祭 in 伊賀 2018
「風と土のふれあい芸術祭 in 伊賀 2018 」を開催しました。今年も、自然豊かな伊賀市の中山間部、メナード青山リゾート(伊賀市霧生)近くの廃校になった小学校(矢持地区市民センター)が舞台です。私が所属するNPO法人 Arts Planet Plan from IGA が、実行委員会の構成団体となって主催する、地域ぐるみの催しです。
今年は、地元の秋祭りに日程を重ね、故郷に帰る人にも芸術祭を見ていただきたいと、会期は10月20日(土)~28日(日)となりました。「公開制作」が事前に行なわれており、「かたち展」の他に、「アートフェア」(ワークショップ・コンサートやクラフト品・食べ物・農作物などの販売のお店が出る)、「ギャラリートーク」「いがぶらNo.42・51・57・63」など、多彩なアートイベントを行いました。私は、看板やサインを書いて協力しました。
この矢持を会場に芸術祭が開催されて11回目となり、その前身「風と土のかたち展」からは通算15回目となるそうです。私は、穴窯を築いた2005年から伊賀の地にご縁ができ、翌年から「かたち展」に参加、13回目となりました。
写真は、「かたち展」会場のごく一部、2階の和室です。左の7点が私の作品、タイトル「田上早百合の壁2018」です。タイトルは、『バカの壁』を意識したI氏の命名ですが、開き直って何でも並べることができるので、気に入っています。芸術祭のために特に制作することはなく、この1年間で制作したものの中から出品し、一年を振り返る機会としています。手前の青白磁の茶道具9点は角谷英明氏(名張市)の作品、右に、空間デザイナー 石津勝氏(茨木市)の灯りと、若い木工作家 吉田大作氏(伊賀市)のスツールです。
写真1・2枚目は、ダイナミックな造形の彫刻「ハンザキ」、3枚目は、木の持つ自然な節やゆがみを活かした木彫「ばく」です。共に、女性の作家さんの作品です。4枚目は、石彫「石浜と波」、5枚目の伊賀焼の口を覗くと、仏像が入っているのが見えるのですが、上手く撮れませんでした。
下の段の写真1・2枚目は、障がいを持つ作家とプロ作家との共同制作「むかいあわせ かさねあわせ」、素材も展示の仕方も新鮮です。3枚目は、毎日のように蓮のスケッチをされ蕾から順番に咲いて枯れる様子を丹念な筆致で100点近く展示されていた、「蓮池讃」の1枚です。4枚目は、斬新な作品だなと思ったら、何とブルーシートに描かれていました!タイトル「Blue Lave」です。
「かたち展」には、今年、61人(団体)が参加、92点の作品が並びました。障害のある人ない人、地域も年齢も様々です。今後は、アウトサイダーアートの理念も共有したいと聞いて、私の学びの場でもあると感じています。
会期中の10月22日(月)・23日(火)は、「いがぶらNo.51 本格穴窯でオリジナル作品づくり」及び「実技講習会/陶芸」のスタッフとしてお手伝いをしました。平日のためか思ったより参加者が少なく、のべ8名でしたが、和気あいあいと制作することができました。
中間考査で授業がなかったので、20日(土)~23日(火)まで、矢持に滞在しました。うち2泊は、地域の方が提供してくださる民家に数人で泊めていただきました。空き家を利用したこの宿泊所は、公開制作の作家さんなども利用されています。また、会場では、地域のお母さん方が地元食材で作るランチ(食べ放題500円)や、ボランティアで運営する喫茶もあり、暖かい地元の歓迎を受けました。多くの方々の中で共に働き、ふれあいを楽しんだ山里の秋の4日間でした。
アートフェアのお店の看板
10月20日から開催される「風と土のふれあい芸術祭 in 伊賀 2018 」の会期中の27日(土)、アートフェアが行われます。今年は、24の様々なお店が出ます。会期中、一番賑わう一日です。
芸術祭の準備は多岐に亘りますが、私に会計や書類作りが回ってくるはずはなく、毎年、これらのお店の看板や会場のサインを書く係を担当しています。ラミネーターで加工され、店先に飾っていただけるのですから、役に立って嬉しいことです。 写真は、その一部です。
大仏書道展の審査
今年の大仏書道大会(主催:NPO法人 奈良21世紀フォーラム)の大仏書道展には、全国の59の高校・大学から1108点の作品が寄せられました。大口の参加校の減少で、昨年より応募数は少なくなりましたが、審査基準(この展覧会の趣旨)をご理解くださった質の高い独創的な作品が、年々多くなってきたと感じています。10月5日に予備審査、10日に本審査を行ないました。写真は、本審査の様子です。(私は、裏方でお手伝いしているつもりでしたが、中央で仕切っているような写真をいただき、こんな瞬間もあったのかとびっくりです。)朝日新聞の記事
9月の活動
猛暑だった夏休みも終わり、2学期の授業は、9月5日(水)から始まりました。アートにかかわる社会的な活動は、年末まで次々と続きます。12月実施の「穴窯焼成」のための最後の薪割り、もう割る間伐材も無くなったその最終日17日に、右指の怪我、人差し指と中指に全治二ヶ月のギブスをしています。
お茶のお稽古と金継ぎはお休み、作陶ができないのも残念です。洗顔もチョークを持つのも左手ですが、私は、筆を双鉤法(二本がけ)で持つので、毛筆で書く仕事はでき、不幸中の幸いです。中学生は、予定通り「行書」の学習を始めました。同情してか、私が書いてみせると、拍手が起こります。印刀が持てないので、高校生の篆刻は途中で延期、墨磨るのぉ?と、こちらは不満そうでした。10月に行なう「風と土のふれあい芸術祭in伊賀2018」の看板も、井田典子さんの講演会の4mもある演題も、奈良学園中高の生徒会に頼まれた掲示物(写真は一部)も、奈良学園大学のフェスティバルのめくり(休憩は一部)も書くことができ、他の作業ができないせいか、ドンドン書きたい気分でした。
琵琶湖の東岸 <長浜・近江八幡>へ
台風が接近していた9月28日、長靴と傘を鞄に詰め、羽柴秀吉の城下町<長浜>を訪れました。富山の実家に車で帰省する度に素通りでしたが、一度観光したいと思っていた街です。
JR長浜駅から歩き出すとすぐに「北国街道」とあり、街道沿いにお目当ての「安藤家」がありました。豪商 安藤家には、魯山人が逗留し、内装のすべてを任された離れ(写真2枚目:母屋から庭越しに撮影)があり、この時期のみ公開されていたのです。「小蘭亭」と名付けられた6畳ほどの離れは、篆書や隷書を多用したここかしこ中国風な意匠でした。母屋の広間には、幅412cmもある欅一枚板の看板「呉服」がありました。魯山人は陶芸家・美食家として有名ですが、私は、彼の豪快な刻字作品が最も好きです。
「安藤家」近くで、名物の鯖そうめんと鯖寿司を食べ、「曳山博物館」で子ども歌舞伎の映像などを見て、「大通寺」に向っていると、カッコいい看板「紙文具」を見つけました。上田桑鳩の書です!散策の足が軽くなりました。(翌日に訪れた「たねや」の看板は、大徳寺の住持の揮毫とのことです。)
この通りから左に折れると、門前町の風情が残る「ながはま御坊表参道」、この参道(300mほど)の正面に「大通寺」の堂々とした山門が目に飛び込んできました。「大通寺」は、安土桃山時代の建築様式を持つ真宗大谷派の別院で、玄関、大広間(写真2枚目)、書院などに豪華な障壁画の数々を見ることができました。写真3枚目は「蘭亭の間」の障壁画の一部、曲水の宴 一觴一詠の場面です。この部屋の床脇を飾る銀杏文の木組みが美しく、また、「含山(がんざん)軒」の枯山水の庭園(写真5枚目)に目をやると、借景として伊吹山が見えた時は感動しました。含山の命名に納得です。
「今重屋敷 能舞館」では、琵琶湖周辺に縁の深い能が多くあることをわかり易く理解することができました。ここから、再び「北国街道」を今度は南にぶらぶら歩き、国指定名勝「慶雲館」に向いました。
写真1枚目は、日本最古の駅舎「旧長浜駅舎」と、右奥に現在のJR長浜駅です。この線路を渡ったすぐ左が「慶雲館」でした。広大な庭園を散策し、茶室も確認し、庭を眺めながら広間でゆっくりすると、京都にいるのではないかと錯覚してしまいました。
その後、「長浜城 歴史博物館」の5階(天守閣)から、今日歩いた所はあの辺りかと眼下を見、はるか合戦跡にも想いを馳せ、琵琶湖や伊吹山などを一望しました。快晴で汗ばむほどの秋の一日でした。
翌日は、予報通り雨でした。研修旅行先<近江八幡>に移動し、10人の参加者の皆さんと合流して、国際芸術祭「BIWAKOビエンナーレ」の会場などを回りました。
こちらは秀吉の甥 秀次の城下町です。近世は近江商人の発祥の地として発展、江戸期に建てられた町家が軒を連ね、風情のある街並み(写真1枚目:新町通り)です。一方で、放置された空き町家が点在する現状を打開すべく、その保存と活用を試みた「BIWAKOビエンナーレ」は、2001年から(初めは3年おきのトリエンナーレとして、2012年からは2年おきのビエンナーレとして)開催されています。国内外から集まるアーティスト達が、多種多様な素材を用い、立体・平面・映像・インスタレーションなどにより、各々の空間を作品化していました。
昨年の研修旅行で見た多治見市の「モザイクタイルミュージアム」、そのデザイン設計を手掛けられた藤森照信さんの独特の建築をもっと見たいと思っていたら、実現しました。それは、「ラ・コリーナ近江八幡」!和菓子・クラブハリエのバームクーヘンなどで有名な「たねや」グループのフラッグショップです。
八幡山から連なる丘の緑に囲まれた広大な敷地には農園が作られ、刈り取られた稲が干してありました。その中に、本社、ショップ、飲食店などの藤森さんの建物が展開されていました。草屋根、百本以上もの丸太のままの栗の木の柱など、ただのお菓子屋さんじゃないです!未来に繋がる素敵な思想と空間が広がっていました。
近江八幡で、見たいと思っていたものがもう1つありました。ヴォーリズ建築です。翌日の台風の影響で「ヴォーリズ記念館」のみの訪問となりましたが、館長さんのお話を伺うことができました。
明治38年、24歳の時にアメリカから近江八幡に来たウイリアム・メレル・ヴォーリズは、83歳の生涯を終えるまで、ここに留まり、キリスト教精神に基づいた、建設設計会社、メンソレータムで知られ
る製薬会社、医療福祉や教育の分野などの事業を行ないました。記念館は、彼が後半生を過ごした建物です。写真1枚目は濡れ縁の様なベンチがある玄関、2枚目は館内、窓枠が十字架のようです。3枚目は彼の書、國(旧字体の国)の点は、近江八幡を意味する〇の中に打ったそうです。クリスチャンの理想は神の国建設でしょう、私有財産を持たなかったヴォーリズは、私達に、有形無形の文化遺産を残していると感じました。
薪割りを終える
8月に行なった夏の薪割り合宿に続き、9月15日・16日・17日、秋の薪割り合宿を行ないました。2年振り9回目となる穴窯焼成を12月に控え、薪の乾燥と作陶会を考慮した、最後の薪割りでした。追加で運び込んだ間伐材の全てと、薪棚の下や周りの材木も残らず木っ端用に割りました。薪は69束でき、前回の残り40束をたすと合計491束で、薪割りを終了しました。3日間の参加者は、のべ21名(メンバーのお友達6名含む)でした。
これまで100時間の焼成のために550束の薪を用意してきましたが、この度、初めて50束の薪をやむなく購入することになりました。間伐材の再活用という趣旨を掲げてきたので、ちょっと悔しい気持ちも残りますが、これまでよくやってきたものだ、やりきったという気持ちの方が大きいです。メンバーの高齢化も進む中、プロの作った薪はどんなものか試してみる、そんな機会を与えられたのかもしれません。
8月の活動
私の工房にはクーラーがないため、夏休み中の在宅日は、起きてからすぐに工房で少しずつ作陶をしていました。写真は素焼きの状態、12月に穴窯に入れるものやテストピースと、写真2枚目は来客のものです。早朝とはいえ汗だくになるので、パジャマのままで行ない、シャワーを浴びてから、一日が始まるといった生活でした。といっても、8月上旬に富山に帰省、薪割り合宿と書道部の合宿もあったので、月の半分近くは、家に居ませんでした。
帰省中、私の母方のお墓詣りに、富山県入善町舟見(ふなみ)に行きました。実家から車で10分、黒部扇状地の扇頂近くまで、なだらかに上ります。舟見は、江戸時代は北陸上街道の宿場町だった所で、旅人や大名行列を見守った黒松、「枡形」と呼ばれる道路が面影を残しています。母の生家は街道沿いで脇本陣をしていましたが、今は、向かいの本陣跡に「里程標」が立っているだけです。
写真は、舟見城址館(標高252mの山城跡)から撮ったものです。防風のための屋敷林を備えた散村は、砺波平野が有名ですが、ここ黒部扇状地でもみられます。日本海を望むこともでき、私の好きな故郷の景色の1つです。
お盆は奈良で過ごし、13日~15日は、ご朱印帳を書くお手伝いに東大寺大仏殿に通いました。この期間は、夜間拝観もあり、たくさんの参拝客が訪れます。奈良公園一帯では14日まで「灯花会」が行われ、15日は東大寺「万燈供養会」(写真3枚目は準備中)、共に幻想的です。戦没者の慰霊と世界平和を願って読経が堂内に響く中、感謝の気持ちで筆を執っていました。
奈良女子大学書道部の合宿
8月23日~25日、今年の奈良女書道部の夏合宿は、平安神宮の北、京都大学の南という風光明媚な所にある聖護院御殿荘で行ないました。おいでやす、とお迎えくださいました。聖護院門跡は、京都御所炎上の際に光格天皇の仮皇居となり、明治まで代々皇族や摂関家が住職を務めた由緒ある寺院、御殿荘はその2万m2の境内の一郭を旅館として開放したものです。
部員達は、合宿ならではの大作(聯落ちサイズなど)に挑戦、創作作品と共に、11月に行なう「墨香展」で展示する作品作りです。部員同士がお互いに切磋琢磨してほしいと思って、合評会(写真5枚目)を大事にしています。参加部員は11名、元東大寺学園書道部で京大生の日帰り参加もありました。
庭園の一角には光格天皇ゆかりの茶室( 写真1・2枚目)と、一夜造御学問所(写真3枚目)がありました。寺院の伽藍を見学、修験道に関係する仏様が多くあり、特に、狩野永納などの桃山障壁画には圧倒されました。150面を超える障壁画や襖絵が収蔵されているそうです。お坊さんが学生達のレベルに合わせて丁寧な説明をしてくださり、写真も撮ってくださいました。写真4枚目は、宸殿の上段之間、四隅が丸い扁額「研覃(けんたん:自分の内面を耕しなさい)」は、後水尾天皇直筆とのことでした。
伊賀での4日間
NPO法人Arts Planet Plan from IGA の自主活動グループ「粘土カフェ」は、今年12月に穴窯を焚きます。真夏の「薪割り合宿」は、17日~19日の3日間でした。メンバーのお友達やそのお子さんも来てくださり、参加者はのべ21名でした。
燃料となる薪がまだまだ足りないので、3日間の目標は120束としました。1日目で40束の薪ができました。ところが、使い過ぎたのでしょうか、電動薪割り機が2日目に動かなくなってしまいました。すぐに、ホームセンターに運び込む事態となり、手斧で割ったり、チェンソーでの玉切り、薪棚の整理、作陶などをしました。写真は、間伐材を運び込んだところと、薪棚です。
合宿中の夜は、おしゃべりも楽しいのですが、私は木工をしていました。7月の実技講習会「竹の楽器づくり」(写真3枚目)で、叩くとビィーン・ビィーンと倍音交じりの音が響くフィリピンの民族楽器「バリンビン」と、揺らすとカタカタと鳴る「カタカタ?」を教えてもらいました。この通称「カタカタ」が、孫のおもちゃに好評で、追加で6つ、作りました!
合宿の翌日20日は、今年度2回目の実技講習会「柿渋づくり」でした。柿渋の材料となる「鶴の子」という品種の柿を、まだ青い内(この時期)に採取するのがよいそうです。奈良市月ヶ瀬に出掛け知人宅のものを採取、アトリエに戻り、洗って、ヘタを取り、ミキサーにかけ易いように切っていきます。続いて、水を少し加えて、ミキサーにかけ、絞りました。参加者10名で、手分けし交代しながら、一日がかりの作業でした。
冷暗所に置き、2年ほどしたら、使えるそうです。和紙や刻字用の木材に塗ったり、染織もしてみたいと思っています。
花器の繕い
陶芸家の旧友 松元洋一氏の3月にあった穴窯の窯出しで、窯の中で割れたのではなく、くっついて出てきたもう一方の大きな作品を活かすために、グラインダーで無残にも切り取られてしまった作品がありました。「要らないなら、ちょうだい」と、言ってみるものです、「こんなもん、何すんねん」と言われて、これ幸い。窯焚きの苦労を知っているせいか、もったいない、繕ってみたいと思い、持ち帰りました。高さ60cmもある花器です。
写真1枚目の手前に写っているのが、仏像の修復にも使うという「こくそ(漆に木くずを混ぜたもの)」です。これを用いて、何日かに分けて乾かしながら穴を埋めていきました。「さび漆」で整えた後、黒い漆で中塗りをし、その後、砥いだ状態が写真2枚目です、やれやれ。
さて、仕上げはどうしようか・・・、蒔絵師の先生は「田上さんの好きなよぉーに」と。金は合わないと思ったので、赤・黒・白の色漆をもらって、混ぜながら塗って(描いて?)いきました。乾くと色合いが変わるので、まあまあ適当です。これが、超たのしい!金継ぎ仕上げだと繊細な作業なので、こうはいかないからです。写真5枚目が、本来の花器の正面ですが、裏に私の遊び心が満載です。
7月の活動
1学期の授業は、7月2日まででした。高校1年生は、王羲之の『蘭亭序』の臨書の後、各自の作品に名前の印を押したいと思って、篆書・篆刻を始めましたが、布字(写真1枚目)まで、仕上げは2学期です。中学1年生は、この頃は墨の磨り方を知らないので用具の扱い方や、教科書にはない「永字八法」から楷書の学習を始め、名前、校訓「至誠力行」などを書きました。
どちらも期末考査のない教科なので、専任の先生方がテストの採点をされている内に1学期の成績を入力、2ヶ月程の夏休みとなりました。
7月7日、お茶の教室の「七夕茶会」が五風舎さん(奈良市水門町)であり、その翌日から、トルコに出かけました。旅行中はご飯の用意をすることもなく毎日遠足で、移動中は昼寝という快適な日々でしたが、帰国後はすぐ、猛暑の中の薪割り(伊賀の法人活動)が待っていました。汗でズボンの色まで変わるほど過酷、記録用の写真を撮る余裕もありませんでした。
夏休みならではの来客もあり、楽しい交流を持ちました。金継ぎ仲間とは、バナナの葉っぱを愛でる会と称する持ち寄りパーティ、ご近所・友人などとは、作陶を共にすることもありました。その度に、家の中が片付くチャンスですから、welcome です。写真5枚目は、「明窓浄机」と唱えて片付けている書斎、毛氈の机から180度椅子を回転させると、篆刻用の机(手前)です。
友人の別荘
穴窯仲間の後藤裕子さんは、木工も手掛け、ご専門のステンドグラスをドアや窓にはめ込んだ作品を作っておられます。昨年末に完成した別荘(伊賀市槇山)は、大工さんのご主人が施工されたログハウス、 この夏、初めてお邪魔しました。泊めていただいた部屋は3方が丸太で、丸太をくり抜いて作るのだという窓も、ステンドグラスでした。家全体が、森の中の作品です。
写真は一部ですが、順に、玄関、勝手口、照明器具、窓、階段です。この素敵な別荘で、制作はもちろん、希望があればステンドグラスの教室も不定期に行なっているとのことです。
トルコ旅行記
遺跡好きの私は、仏教遺跡のアンコールワット、ボロブドールの次は、バガン(ミャンマー)に行きたいと思っていたのですが日程が合わず、7月8日~19日(12日間)のトルコツアーを見つけ、一人で参加しました。トルコ国内では飛行機を使わず全行程バス移動、また物価が安いためか、イスラム教のイメージが悪いためか格安でしたが、古代の遺跡の数々を効率よく見学することができ、思いがけない充実した旅となりました。(【】は世界遺産)
バスは、イスタンブールからひまわり畑の広がる農村地帯(ヨーロッパ側)を約5時間(330km)走り、ダーダネルス海峡をフェリーでアジア側に渡った所にある、エーゲ海北部の街チャナッカレに着きました。近郊の丘にある【トロイの考古遺跡】は、石畳の坂道や比較的小さな石組みの城壁跡が広がっており、現地の犬が道案内してくれるのどかで雑然とした所という印象でした。しかし、紀元前3000年~ローマ時代の、盛衰を繰り返した第1市~第9市の9層にわたり積み重なる都市の遺構だと知って、トロイ戦争もそのごく一部なんだ、と感慨に浸りました。
チャナッカレの南、エーゲ海のリゾート地アイワルクに泊まり、翌日、さらに南下して、ベルガマ(古代名ベルガモン)の丘陵地帯に残るベルガモン王国の都市遺構【ベルガモンとその重層的な文化的景観】を回りました。
最初に、訪れた「アクレピオン」は、世界的に見ても珍しい古代の総合医療施設の遺構です。写真1枚目は入口の「聖なる道」、この参道の向こうに見える丘の上に、この後行く「アクロポリス」を望むことができ、往時の栄華はいかばかりかと、大理石の列柱を見上げました。半地下の医療施設の他、精神面のケアのためでしょうか、コロネード(回廊)や劇場も残っていました。
写真3~5枚目は、標高355mの山頂までロープウエイで上がった所にある「アクロポリス(アクロ:高い、ポリス:都市)」から撮ったものです。神殿跡や傾斜面を利用して作られた大劇場などがあり、ベルガモンの街が一望できました。
午後は、さらに南下して、【エフェソス】を訪ねました。紀元前12世紀に建設され、ローマ帝国時代に全盛期を迎えた古代都市の遺跡は、エーゲ海最大といわれています。
最初に訪れた「アルテミス神殿」の遺構は、なんと残骸を積み上げた柱1本(写真1枚目)が残るのみ。当時の神殿は、アテネのパルテノン神殿を上回り、雲をついてそびえていたといいます。
モノレールで丘の上の「エフェソス遺跡」へ。広大な遺跡の中を歩いていると、今も人々の営みが感じられ、かつて繁栄して埋もれてしまったイタリアの古代都市「ポンペイ」と同じ感じがしました。が、こちらは、建物の一部がかなり美しい状態で残っていました。写真2枚目は、メインストリート「クレテス通り」、その突き当りにヘレニズム建築の最高傑作「ケルスス図書館」の前門が見えます。(写真4枚目は、門の内部) 古代の三大図書館の一つで、パピルスや羊皮紙に書かれた12万巻もの蔵書が壁のくぼみに収めれていたそうです。巨大な円形劇場は響きがよく、圧巻でした。
宿泊は、美しい港町クシャダスのエーゲ海を望むホテル(写真1枚目はコテージの窓から)でした。翌日から、エーゲ海に別れを告げ、バスは東方へと向かいました。
3時間ほど走ると、大理石の採石場があったという古代ギリシャ・ローマ時代の【アフロディシアス遺跡】の街です。昨年、トルコの世界遺産17番目に登録されたばかりで、まだ観光客も少なく、バスを降りてトラクターに乗って行くという穴場的な所でした。とにかく広く、かなり歩きましたが、あぁ、すごい!トルコに来てよかった、と思いました。大型の競技場(写真3枚目)、神殿、浴場、議事堂、劇場などが残り、発掘された立派な彫刻の数々が付属の博物館に展示され、見応えがありました。
午後は、【ヒエラポリス・パムッカレ】に行きました。「パムッカレ(トルコ語で、綿の城)」は、石灰華段丘からなる丘陵地で、炭酸カルシウム(石灰)を含んだ温泉が山肌を流れ落ち沈殿して、純白の棚田のような景観を作り出しています。この石灰華段丘の一番上に、2世紀頃、「ヒエラポリス」というローマ帝国の都市が温泉保養地として存在しました。
石灰棚は、昼間は空の色を反射して青く輝き、夕刻には茜色に染まるそうです。一部一般解放された石灰棚を素足になって歩いて、世界遺産の流れる温泉に足を浸しました。
この日泊まったパムッカレのホテルは、屋外に泥の温泉プールがあり、水着で入りました。早朝、近くを散歩していると、小さなモスクの近くに、草間彌生さんもびっくりするでしょう、カボチャのオブジェのようなもの(写真1枚目)があり、温泉が湧いていました。
パムッカレから、バスは東に6時間(430km)ほど走り、古都コンヤに到着。コンヤは、宗教都市として栄え、イスラム教の礼拝堂(モスク)が多くあります。その一つ「アラアッディンモスク」に、頭にスカーフを被り、入れていただきました。
「メブラーナ博物館」は、旋回舞踏(白いスカートのような装束で男性がひたすら廻る踊り)で有名な教団の聖地(修行場・霊廟)だったところで、エメラルドグリーンのタイルで覆われた円錐形の屋根が印象的です。アラビヤ文字の美しい幾種類ものコーランに見入りました。衣装や工芸品の展示の中に、これで書いたのかなというもの(写真5枚目)を見つけました。
コンヤから、さらに内陸のカッパドキアに向かう途中、スルタンハンという所の「キャラバンサライ」に立ち寄りました。この町はシルクロードの中継点にあたり、多くの隊商が交易のために往来した、その宿泊所です。頑固な壁に守られた回廊式の建物でした。写真は、その立派な入り口です。
カッパドキアでは、洞窟ホテルに2泊して、複合遺産【ギョレメ国立公園およびカッパドキアの岩石遺跡群】を堪能しました。写真2・3・4枚目は、ラクダ岩、三姉妹の岩、「ギョレメ野外博物館」からの景色です。今も洞窟に生活されている家が35軒あるそうですが、その1つに訪問をさせていただきました。通された広い部屋には代々手作りのトルコ絨毯が敷き詰められ、制作中の織り機がありました。
300以上あるという「地下都市」の見学もしましたが、住居だけでなく教会やワイナリーもあり巨大で、狭い道を下って行った時は、一度行ったらもういいかな、と思ってしまいました。雄大な景観は、気持ちのいいものでした。
カッパドキアの次の目的地サフランボルまでは、ほぼ1日がかりの移動でした。途中、首都アンカラの南東100kmの所にある「カマン・カレホユック遺跡」はじめ3つの遺跡の、発掘物と研究成果を展示した「カマン・カレホユック考古学博物館」の見学をしました。トルコの国土の93%を占めるアナトリア高原には、「ホユック・フユック・カレ・テぺ」と呼ばれる丘状の遺跡が無数に点在しているそうです。日本の資金協力で出来たという博物館も丘形でした。アナトリア考古学研究所隊長の松村公仁先生が、丁寧な案内をしてくださいました。石器時代の次は青銅器時代、そして今は鉄器時代だとおっしゃたのが、心に残っています。
翌日は、今も中世の雰囲気が残る【サフランボル市街】を散策しました。石畳の細い道、白い土壁と木造の窓枠や門を持つ家屋はほとんど3階建てで、レンガ屋根が美しい景観を作り出していました。築200年の古民家「カイマカムラル・エヴィ」は、博物館として公開されていました。敷かれているキリム(平織絨毯)、男女が分離されていたサロン、生活用具などイスラム圏での大家族の暮らしぶりがよくわかり興味深く思いました。
6月の活動
奈良国立博物館では、「創建1250年記念 国宝 春日大社のすべて」という、正倉院展並みに見応えのある展覧会が開催され、遠方の友人が奈良を訪れました。写真1枚目は、その折に案内した若草山山頂からの眺望、ここへ来るとよく座る私のお気に入りのベンチから撮ったものです。
毎月第三土日は、NPO法人Arts Planet Plan from IGA の自主活動の1つ「粘土カフェ」の定例活動日、12月の窯焚きに向けて、仲間と共に薪割りに汗を流しています。間伐材をチェンソーで玉切りにし、油圧式の電動薪割り機を使って、燃料となる薪を作っていますが、チェンソーを扱うのは、ちょっと楽しい作業です。写真2枚目は、チェンソーの目立てです。台所の包丁、陶芸用のカンナ、篆刻の印刀を砥ぐことはありますが、チェンソーの目立てをすることになるとは、私の人生には予定の無かったことです。
写真3枚目は、書のグループ「墨翔」の集会の様子です。大阪府立市岡高校の書道室をお借りして、先月の展覧会の反省や会計報告、次年度のことを話し合いました。
5月の活動
連休に行なった「墨翔とその仲間展」は、私の全てをさらけ出す場となって4年目です。一番長く関わってきた書を中心に、陶芸、金継ぎ、茶の湯、そんな活動の中から生まれる物や言葉を並べました。それぞれの分野に、良い仲間がいてくださることに感謝するばかりです。
中間考査で授業の無い週に、帰省しました。写真は、故郷 富山県入善町の「杉沢の沢スギ」の沢スギ自然館展望室から撮ったものです。もっと晴れていると、立山連峰の残雪が、切り絵のパノラマのように壮観で美しいのですが、この時は雲が掛かっていました。
入善町は黒部川扇状地の東部、地下水の湧き出る海岸に近い地域には、かつては杉沢が方々に見られたそうですが、現在では、「杉沢の沢スギ(国指定天然記念物)」が2.7haのみ保存されています。林内には湧水が流れ、鳥がさえずり、多様な植物が生育しています。夏は涼しく、冬は暖かいそうです。遊歩道もあり、とても気持ちのいい散策が楽しめる所です。日本の平地で杉の「伏条更新」の現象が見られるのは、ここだけとのことです。
「墨翔」の作品集 vol.IV が刊行されました。この度は、2013年~2017年の5年分です。これまで30年以上に亘って、文珠幹夫氏が墨翔展の作品の写真を撮ってくださっています。写真2枚目は、今年の撮影風景です。私も、2015年から参加しているので、昨年までの3年分の出品作品の中からいくつかを、4ページに載せてもらっています。私のページ
墨翔とその仲間展
5月3日(木・祝)~5日(土・祝)、仲間として参加して4回目となる「書グループ 墨翔とその仲間展」を行ないました。「墨翔展」としては35回目となり、墨翔のメンバーは5名(4名はアラ古希)、その仲間は今年12名(大学生~60代)でした。
このグループ展は、各自が独創的な表現をしており、書道展でこんなに面白いものはないと言ってくださるのは、嬉しいことです。 好きな書道を継続していくことが大事なんだという先輩達の想いから、ルールがないと言っていいほど決まり事がユルイのです。そのため、各自が自覚して緊張して参加しているのがよいのだと思います。
会場は奈良県文化会館、今年は2階全室(C・D・E室)を使ったので、ホール展示が可能でした。E室前のホールに、3年前に書いた「奥のほそ道抄」の巻物(16m)を裏打ちして初めて、展示することができました。お終いの方は巻いたままとなってしまいましたが(写真1枚目)、改めて芭蕉さんの文章を読み返し、弟の下絵と共に全体を通して見るよい機会に恵まれました。
C室の私の担当壁面は約10m、書道と陶芸と、茶の湯も楽しんでいる私らしさが伝わればと思って、構成しました。作品の間には、穴窯焼成の花器に家の周りで採った野いちごや草花を生けました。
左に、刻字作品「野の百合工房」、この展示後、私の工房に飾りました。その下に、4点の茶道具(印泥入れとして作った蓋物は「秋草文香合」、茶碗3点)と、その箱書きを並べました。茶碗の銘を考えるのは楽しいものです。1つは、穴窯焼成で出来た釉溜まりを三輪三山に見立てて「藤原京」、赤楽茶碗2つは地平線のように指跡が残った方が「夕ぐれ」、全体にぼんやりしているのが「あけ本(ぼ)の」、典故は『枕草子』です。
壁面中央に軸3点、その左(写真1・2枚目)は「主人公」です。この言葉が好きで、色々な書体で、サイズも大小、縦書き横書きでも試して書いていたものの1つです。南宋の無門慧開の著書『無門関』12則にあり、本文の現代語訳「瑞厳の彦和尚、毎日自ら主人公と喚び、復た自ら応諾す」と入れました。
その右に、淡墨で書いた「惺々著(読み:セイセイジャク、意味:目を覚ましておれよ)」です。彦和尚は「主人公よ!」と呼びかけ、自ら「はい!」と応え、次に「惺々著!」と言っては「はい!」と応えていた、とあります。自分自身の人生の主人公でいたいです、ちゃんと目を覚まして物事を見ます!と、私は彦和尚と対話しながら、強い意志で筆を執っていました。
中央右の紬に書いた対聯は、この『無門関』の序文にある頌(歌)です。原文の書き出しは「大道無門」、よく目にする4字句です。図書館で何冊も現代語訳を読み比べましたが、魚返(おがえり)善雄氏の語調のいい訳が気に入りました。「真理ニ門ナク、道コソサマザマ、コノ関トオレバ、足音高ラカ」です。金文と片仮名で書きました。
右角に、つい立の作品を置きました。昨年出品したこのつい立ての裏は銀色の紙が張ってあったので、ここに書けば表具代が浮く!と思いつきました。『無門関』12則に登場する瑞厳の彦和尚は、石の上に座禅していたというユニークな禅僧です。一気に「坐」と書きました。終筆のハネが、隷書習いたての高校生が書くように上がり過ぎたのが、悔しいです。
こちらは、墨翔メンバー5名の合評会の様子と作品のごく一部です。上の1・2枚目は河野通一氏、3・4枚目は早崎公男氏です。下の1枚目は濵上哲氏、2・3枚目は中西玄匡氏、4枚目 は志民和儀氏です。今年初めて<プロフィール>を展示しようということになりました。写真で も似顔絵でもいいいやないか、というものでした。(名前をクリックすると、プロフ ィールが出ます。)
仲間のプロフィールには、様々なものがあり、感心しました。一人だけ無い人もいたり、そうそうと言ってその場で書く人もいたり・・・、これも墨翔らしいところで、ええ~?!と言うのは私だけです。そして、私のものが、一番平凡でした。天真爛漫に育ち、自由にやっているつもりでしたが、いつの間にか頭が固くなっているようです。
墨翔の仲間の文珠幹夫さんは「大阪東ティモール協会」代表、2002年の東ティモールの独立、その以前から支援活動をされています。カメラマンとしてもご活躍で、これまで、現地の子供達や生活の様子を撮った写真展をされています。この度は、墨翔の方々や交流のあったその仲間の方々の、イベント会場や合宿で揮毫されているところを撮った写真を、E室全体を使って展示されました。筆を操る瞬間をとらえた貴重な作品の数々、書の魅力が存分に伝わるものでした。
年に何度か行なう墨翔の集会(合評会の様子)や、毎回の作品の写真も撮ってくだっています。
墨翔の皆さんは、発想が柔軟で、特に若い方々は、自由でおしゃれな作風が多いです。写真は、その中の一部です。書き込んでいないところが、うらやましいです。2枚目は「日々」、2文字の空間(余白)に広がる時間、紺の表具が爽やかです。
写真3枚目は、墨翔の先輩達が、古い拓本を見ているところです。多くの来館者がお越しくださっているので、私は、自分の作品の前でお客様をお迎えしたらどうかと思うのですが、どなたかが持ってきた貴重な資料を見つめる姿は、嬉々とした子供のようです。
書の楽しみは、名品を手に入れ、鑑賞するところから始まり、鑑賞の追体験として「臨書」をする、筆を使う面白さを知り、そして、仲間と発表し、他の仲間も集う、墨翔の習慣では、そして酒を飲む、となっています。このグループ展には、年に一度、遠方から来てくださる方々もあり、嬉しい3日間でした。
4月の活動
新年度の授業は、9日から始まりました。写真は、奈良学園(大和郡山市)のホールに展示した色紙です。中一が、3学期の終わりに好きな四字句の行書体を字書で調べて書いたものです。今年度も、週2日の授業と、2つの大学の書道部の指導に当たります。
社会的な活動の新年度の予定も決まりました。秋に開催する「第9回大仏書道大会」の要項は、6月末には発送です。また、伊賀の法人活動で12月に実施予定の「穴窯焼成」に向けた日程も決めました。活動日を増やして、薪割りに励むことになりました。
新学期が始まるまでの春休みに、「墨翔とその仲間展」の表具屋さんに出す作品2点を、先に仕上げました。その後、刻字作品を久しぶりに作っていました。工房の看板(野の百合工房)です。写真は彫っている途中のもの、胡粉を塗って仕上げました。
軸装の作品と刻字の作品の他に、つい立て、茶道具4点の箱書き、紬の反物に書く作品を予定しています。これらの素材を眺めながら墨を磨っている時が、一番ワクワクして幸せな気分ですが、失敗なしの一発書きなので、実力が丸見えです。先輩達に交じっての展示が、こんなものでいいのかと思うと、緊張します。他に、キャプションとプロフィールをパソコンで作成、ポートフォリオの追加の作業もしていました。
May展
奈良女子大学書道部は、4月28日(土)~、大学正門前にある「旧鍋屋交番きたまち案内所(写真1枚目)」を使わせていただき、「May」を開催しています。3月末の日帰り合宿から準備をはじめ、4月からは新歓の茶話会もやりながら、年度初めのこの展示
に臨みました。
仮巻き3本に、恒例となった共同作品(2回生3名は「麦の唄」、3回生9名は初夏の花がテーマ)、他に色紙など11点です。四畳半程度の小さなスペースですが、思い思いの創作作品が並びました。奥の右角には、私の花器を置きましたが、花は控え、筆筒として筆を飾りました。
楽焼き
滋賀県立陶芸の森(甲賀市信楽町)sccp.jp 主催「しがらき学ノススメ!」の実技講座の一つ「ラク焼きの茶碗をつくる」に参加しました。昨年も参加し、この度2回目の挑戦です。成形は3月11日、施釉と焼成は4月1日にありました。
成形は、茶人でもある信楽の陶芸家 奥田英山先生(写真1枚目)が指導してくださいました。写真2枚目は乾燥中の私の作品の一部、黄土を塗っているものは赤楽になります。写真3枚目は、素焼きが済んだ状態です。
用意された釉薬は、いくつかあり、掛けるのではなく、刷毛で塗っていきます。これがなかなか難しいのです。その後、写真1枚目のガス窯と灯油窯を用い、奥に写っている若いお二人の先生が焼成を担当してくださいました。充分に乾燥させ、1つの窯に2点ずつ入れ、焼成時間は7~10分と短く、焼成温度は黒楽は1240℃くらい、他は840℃くらいとのことでした。引き出され(写真2・3枚目)、間もなく色が現れ、冷めれば出来上がりです。
自作の楽茶碗で、お抹茶をいただきました。いつの日か、私の電気窯でも茶道具が焼けると楽しいな、と思っています。
3月の活動
今年度の授業は5日で終わり、ひと月程の春休みです。3月上旬は、東大寺二月堂修二会の本業があったため来客が多く、お松明が上がった後の聴聞にもたびたび通っていました。
その後は、旅行もせず、書斎の窓から見える木々や光が春めく様を楽しみながら、のんびりと読書をし、図録をめくり、墨を磨り、筆を執って過ごしました。「墨翔とその仲間展」に、淡墨の作品を1点予定しているので、持っている主な墨の墨色の見本を作ってみました。春休みならではの作業です。気に入った墨色の2・3本をブレンドして使います。
3月31日、書グループ「墨翔」の集会がありました。写真は、3月上旬に届いたこの集会の連絡(封書)の中に入っていた葉書程の小さな手紙、墨翔メンバー濵上哲さんの書です。連絡文は打ってありましたが、手書きでこのようなメッセージが入っていたので、嬉しくなりました。
集会当日は、展覧会と作品集の打ち合わせの後、作品の見合いでした。先輩や仲間の若い方々からも良い刺激をもらい、早く帰って書き直しだぁ~、と思いました。
薪割り
NPO法人「Arts Planet Plan from IGA 」の陶芸自主活動グループ「粘土カフェ」は、今年12月、2年ぶりとなる第9回穴窯焼成を行なう予定です。しかし、昨年の秋は行事が続き、チェンソーの故障と冬季休みもあったため、1回の焼成(100時間)に必要な薪束は550束ですが、まだ120束でした。定例活動日の3月18日、久しぶりの薪割りを行ないました。
間伐材を玉切りにするために必要なチェンソーの扱いやメンテナンスを、間伐材を提供していただいている上野森林公園の山本勝氏にお越しいただき教えてもらいました。その後、薪割りは、「粘土カフェ」のメンバー6人で行い、48束の薪ができました。今後、活動日を増やして、窯焚きに臨みます!写真3枚目の右3名は、自主活動グループ「庵プロジェクト」の方々です。「粘土カフェ」「庵プロジェクト」共に、新たな参加者を募集中です。
東大寺二月堂修二会
大仏池の方から二月堂へ向かう裏参道は、私の好きな散歩ルートですが、修二会の別火が始まると、二月堂周辺は注連(しめ)縄で結界され(写真1枚目)、参籠されている塔頭の門には、三重巻きの「輪注連」(写真2枚目)がみられます。そして、3月1日から本業が厳修されました。
5年前、東大寺でアルバイトをしていた息子は、お松明の火の粉を箒で掃いていたものですが、その後、職員となり、今年は初めて、お松明を持つ「童子(どうじ)」の役で、連行衆と共に参籠しました。写真3枚目の右の手前にある松明が、2本目に上がる彼
のもの、杉の葉の直径は1mほどあります。童子は自分が持つ松明を、毎日早朝から作るのだそうです。12日に上がる「籠松明」は、何日もかけて作成(写真4・5枚目、完成したのが写真6枚目)、達陀(だったん)などで使う松明を作るのも童子の仕事だとのことでした。
毎日行なわれる食堂(じきどう)作法の後、11人の連行衆が一人ずつ出てこられて、閼伽井屋(あかいや)の屋根に向かって、ご飯少量入った和紙の包みを投げる「半飯(さば)投げ」の一シーンです。食堂では、正午から長い祈りの後、唯一の食事を摂られますが、話をしてはいけないので、食事が終った後の茶の所望は、箸でお膳を叩きます。この音が、出待ちの私達にもユーモラスに響きます。修二会は音楽の要素も多く、声明はある時は輪唱のようでもあり、ジリジリと杉が燃える音、乱れ立つ差懸(さしかけ、木沓)の音、五体投地のバーンという板の音、楽器は銅鑼・鈴・ほら貝など様々ですが、このカチャカチャを聞くのもちょっと楽しいものです。
写真4枚目は、14日、10本のお松明が連続して上がり、掛け声と共に一斉に振られた時のものです。杉の燃えて落ちた枝は、無病息災を願って競って拾いますが、娘が抱っこしていた私の孫にと分けてくださった方があり、祈りの気持ちの尊いことに感動しました。
友人の穴窯「窯出し」
先月上旬に行われた友人松元洋一氏の穴窯「青?窯」の窯出しが、3月4日にあり、お手伝いに行きました。1m程の大きな花器の作品に、隣の花器が倒れてくっついて出てきました。(写真3枚目) 大きい方を活かすために、グラインダーで小さい方がカットされ、無残な姿になりましたが、私はそれをもらって帰りました。漆で継ぎます!大皿は、無傷で出てきました。写真5枚目のひびは、私が金継ぎを習っている杉村聡先生が修復することになりました。
この大掛かりな穴窯焼成の様子が、鳥取大学の企画制作により、映像として記録されました。https://youtu.be/DRdytwQR1ec
2月の活動
写真は、古材(幅92cm)、陶芸をする工房の看板用です。「野の百合窯」と墨書し、刻字をする予定です。書斎では、5月の連休にあるグループ展「墨翔とその仲間展」の準備を、あれこれ始めています。
普段はテレビを見ない生活で、スポーツ競技のルールもわからないのですが、冬季オリンピックのフィギャースケートは、あまりにもかっこよくて、楽しく見ていました。テレビを見るとなると、大きめの硯を持ち出して、墨を磨りながら見るのが習慣です。私も1回転くらいのジャンプを決める努力をしたいものだと思わされました。
赤膚焼登り窯の見学
2月25日、奈良市教育委員会文化財課主催の「奈良の文化財をもっと知る講座」の1つ、「赤膚焼登り窯の保存と活用」に参加しました。訪ねたのは、8代目古瀬堯三さんの「赤膚山元窯」(奈良市五条山)です。
写真1枚目奥の建物は、かつての大規模な作業場で、今は店舗・展示場(写真2枚目)となっていました。別棟の工房で赤膚焼の制作工程の説明があり、裏山(粘土の山)に案内していただくと、若草山・東大寺・薬師寺なども遠望できました。
この古瀬堯三窯には、幕末から昭和40年代まで稼働していた大きな登り窯(写真1枚目、奥行18m、胴木間と8房の焼成室)の他に、中型・小型の登り窯(写真2枚目)もありました。老築化した大型の登り窯は、2015年から解体・発掘調査され、その様子を3次元計測図も用いての説明がありました。この度、修復が完了し、内部の公開(写真4・5枚目)に至ったとのことでした。
森本木羊子 生誕120年 記念版画展
帽子作家の藤本亜也さんから、祖父にあたる版画家 森本木羊子(もくようし)mokuyoushi.jp の展覧会のご案内をいただき、2月28日、久しぶりに京都の哲
学の道を歩き、法然院(京都左京区鹿ヶ谷)を訪ねました。写真1枚目は法然院の山門、写真2枚目はアーティストの発表やシンポジウム会場として活用されている講堂(元浴室)です。
作品は、仏像を中心にした木版画で、彩色が加えられたもの、凸にやや盛り上がった磨り方のものなど、間近で興味深く鑑賞することができました。また、貴重な版木も展示され、中には、交流のあった河合寛次郎の作品をモチーフにした版木もあり、鑿跡や絵の具も確認できました。
松阪市文化財センター
穴窯仲間の小林斎さんが、地元松坂市で陶芸のグループ展をされていたので、2月18日、「松阪市文化財センター」の市民ギャラリーに行きました。展示会場となっている建物は、趣のあるレンガ作りで(写真1枚目)、旧カネボウ綿糸工場の細長い原綿倉庫(大正12年建築)を修復して活用されているとのことでした。写真2枚目は、小林さんの作品のうちの1点、公募展で入選された作品などレベルの高い陶芸展でした。
この文化財センターの「はにわ館」には、宝塚古墳(松阪市街地から南に3kmの丘陵地)から出土した埴輪の展示をしていました。「船形埴輪」を初めて見ましたが、日本最大(全長140cm)という堂々としたもので(写真3枚目)、日傘・太刀・杖の飾りが立てられていました。他にも、盾形、蓋形(きぬがさがた)や囲形埴輪(写真4枚目)など、形状の美しいものを見ることができました。
天目茶碗の金継ぎ
蒔絵師の杉村聡先生の工房(奈良市西ノ京)に、月2~3回のペースで金継ぎを習って3年目、生徒が私一人の時もありましたが、金継ぎの需要が高まっているようで、仲間が増えています。繊細で根気のいる作業を、仲間と和やかに行なっています。
写真は、田上鐵牛に頼まれて修復した天目茶碗です。欠けて無い部分は、元のカーブや厚みを再現するよう「さび漆」で作っています。それを磨ぎ、漆を塗って、また磨ぎます。この「中塗り」を何度か行ない、仕上げに金を蒔きます。彼のコレクションは、書画と朱泥茶壺(さこ)の他に、骨董市などで集めてきた、私がガラクタと呼んでいるものがたくさんあります。欠けたままではガラクタ以下です。ガラクタ収集の片棒を担いてしまいました。
友人の穴窯
学生時代から家族ぐるみの交流のある陶芸家 松元洋一氏の「青?窯」は、毎年、この寒い時期に穴窯焼成を行っています。写真1・2枚目は「窯詰め」、焼けていないのに、この時点で感動します。
写真3枚目は「胴木の窯焚き」、写真4・5枚目は「間焚き」の様子です。間焚きは、左右3か所ずつ、小割りをする人を含めて左右各々4名が交替で行ないます。8日間に及ぶ窯焚きは、元内弟子、通い弟子、陶芸家、陶芸を勉強中の学生さん、ファンの方々(ギャラリーの主人や料亭の職人さん)などが京都を中心に各地から集まり、多い時は16名が、声を掛け合いながら、きびきびと動いていました。私達「粘土カフェ」の窯焚きは12月・・・、私は身が引き締まる想いで、窯の音を聞き、火を見つめていました。
1月の活動
元旦は、奈良で迎え、大神神社(桜井市)に初詣でに行きました。その後、富山に帰省、11日から三学期の授業が始まりました。後半は、風邪を引き、珍しく在宅日が続きました。27日、若草山山焼きの点火前に打ち上げられる花火を、自宅2階の書斎から一人で見ていました。
「はたちの献血」キャンペーン
1月14日(日)、近鉄奈良駅前の行基広場で、「平成30年 はたちの献血キャンペーン」の啓発イベントが行われました。「左京サウンドソナーレ」の軽快な演奏の中、奈良女子大学書道部の部員(ちょうど二十歳の二名)が、「はたちの献血」と書かせていただきました。
行基広場に隣接する奈良近鉄ビル6階には、奈良県赤十字血液センター「献血ルーム」があります。このロビーに、キャンペーン期間中の2月28日まで、この日の作品が展示されています。同時に、書道部のミニ書展もさせていただいています。色紙や折り帖などの作品10点と、部活の様子をお伝えする写真展示ですが、好評とのことです。部員達と、献血してみようか、と話しているところです。
石田歩の図画工作展
横浜駅直結のショッピングモール「BAY QUARTER」(写真1枚目)に、パブリックなアートギャラリーとして、ギャラリーボックスがあります。年末~2月13日(火)まで、「石田歩の図画工作展 イーン ヨコハーマ!!」が企画されていたので、見に行きました。
展示ボックスは、横浜ベイクォータービル3・4・5階にある27箱、写真は一部です。図画工作シリーズの中から、トロッコ島内部を再現したという作品群は、昨年4月に還暦を迎えたにも関わらず、少年時代の描きたい作りたいという想いをいつまでも持ち続けて制作している弟 歩ならではの世界、楽しさと懐かしさに溢れていました。
東京台東区の美術館めぐり
富山に帰省した帰途は北陸新幹線で東京経由、この度は台東区の美術館を回りました。1つ目は、JR日暮里駅から徒歩5分の「朝倉彫塑館(台東区谷中)」に行きました。彫刻家 朝倉文夫自ら設計したアトリエと住居だった建物と庭園です。中の撮影は不可、写真1枚目は館の玄関、2枚目は天王寺玄関(正面の窓越しに中庭)です。京都の「白沙山荘」の庭や建物が、橋本関雪の美意識を反映した作品そのものであるように、また、「河合寛次郎記念館」が生活即仕事場だったように、ここも作家の生きた場所が持つ魅力に溢れていました。
1つ隣りのJR鶯谷駅から徒歩5分、「根岸 子規庵」、そして、そのお向かいにある「書道博物館」に行きました。子規が、病臥の床で糸瓜を眺めた部屋と仲間が集まった隣の部屋(写真4枚目)にいると、身近に子規を感じて、胸がいっぱいになりました。
初釜
年のはじめの茶の湯は清々しく、気持ちが引き締まる催しだと思います。写真1~4枚目は、実家の茶室「夢想庵」での初釜の様子です。炭点前では、母が夏のうちに作っていた「湿し灰」を用い(写真1枚目)、香合は狛犬でした。裏千家の初釜によく登場する「花びら餅」や、お濃茶は「島台」のおめでたい楽茶碗で行なわれました。茶会記を書きました。5枚目の写真は、私がお稽古に行っている教室の初釜の時のものです。
年のはじめに
戌年の一年が始まりました。私の両親は動物が大好きで、私が生まれる前から犬は家族で、私が学生の頃に居たのが、とても利口だった天然記念物の北海道犬でした。2枚目の写真は、父がこの犬をモデルに原型を作り、某商事の創業記念(戌年の贈答品)として鋳造された色紙大のレリーフです。前年の昭和56年(酉年)の作、限定31とあり、内1点が家にありました。3枚目は私の、4枚目は田上鐵牛の、「戌」です。
今年の年賀状です。(クリックすると拡大します。)
休みがちなお茶のお稽古ですが、子供の頃は落ち着きがなくて50才を過ぎてからやっと茶道を始めました、と言ったことがありました。すると、あら、今も落ち着きないじゃない!と返ってきました。確かに・・・。正座は苦手ですし、イベントが多い、よく寝て、よく食べて、よく動いているなぁ、と思います。新年は、何とか念願の<書斎に引き籠り>の時間を持つつもりです。