12月の活動
二学期の非常勤の授業は5日まで、すぐに成績を出し、その後は、2年9ヶ月ぶりに行なう「穴窯焼成」を成功させることしか考えていませんでした。備品・消耗品のチェックと購入、参加者への連絡、記録ノートやシフト表作りなどをし、月の半分近くは、窯のあぶり・窯詰め・会議・窯焚きと片付けのために、伊賀に滞在していました。26日に帰ってからは、年末のお掃除もそこそこに、お正月料理の準備です。年賀状の宛名書きを始めた頃に、今年が終わってしまいました。
写真1枚目は、メナード青山リゾート(伊賀市霧生)の自然文化村にある穴窯の窯焚き、12月上旬、勉強のために見学に行った時のものです。100万坪の大自然に囲まれた総合施設の一つに、陶芸体験ができる設備もあり、スタッフで陶芸家の東優さんが700点もの作品を詰め、焼成されていました。窯出し後の作品を拝見に行った時、青山高原はうっすらと雪が積っていました。写真2・3枚目は、その時に撮った美しい穴窯の内部です。穴窯一色の12月でした。
「穴窯焼成」 窯焚き
体調管理に気を配り、年の瀬の「窯焚き」に臨みました。12月21日(水)~25日(日)までの夜通し100時間の窯焚きは、怪我もなく、無事に終えることができました。26日の片付けまでの6日間の参加者は、のべ74名、法人会員15名と一般12名(大人8名・大学生2名・小学生2名)でした。
写真1枚目は、550束の薪ができた時(夏の合宿)に撮ったものです。赤松の間伐材を、三重県上野森林公園や青山高原別荘地管理事務所からご提供いただき、毎月集まって「薪割り」に汗を流してきました。2枚目の写真は、焼成中に撮ったもの、暗い時でも運び出し易いように、薪束を手前に移動しています。そして、薪棚は、空っぽになりました。
写真1枚目は、新しくなった扉、「粘土カフェ」メンバーYさんののご尽力で出来上がりました。温度計を設置し、ベンチや灯光器も用意して、21日12:45「火入れ」、素焼きをしていない作品もあるため、この日の24:00までは100℃を、翌日12:00までは350℃を目標に、「焚き火」です。木っ端を使い(写真3枚目は、木っ端を運ぶメンバー)、上げ過ぎに注意しながら、交代で行ないました。アトリエ内には、写真4枚目の掲示物の横に「窯焚きのシフト表」があり、各自が空き時間を確認して、昼間でも寝ることになります。
空気爆発の温度帯350℃まではゆっくりでしたが、2日目午後からは3人体制で、「攻め焚き」開始です。13:30、500℃になると、いよいよ上の焚き口からの木っ端の投入となりました。写真5枚目は、18:00頃(800℃)の窯の中の様子、燠の向うの作品は、まだ素焼き程度です。
20:30からは薪も併用して、間もなく、67袋もあった木っ端を全て使い切り、窯の温度は順調に1000℃になりました。
この夜は、激しい雨に見舞われました。どんどん足元がぬかるむ、冷え込む、真っ暗な中を、濡れながら木っ端や薪を窯まで運ぶ作業は、困難でした。しかし、窯に近づくと暖かく、低気圧を味方につけて、温度をドンドン上げることができました。わぁ~1100℃~!、日付けが変わる頃には、早いペースで1200℃越え!キラキラとオレンジ色に輝く長い炎を見ると、眠気も疲れも吹っ飛んで、夜中の山の中で、はしゃいでおりました。
活気に満ちた「攻め焚き」で一旦1200℃に上がった後は、自分の当番の時に温度を下げるわけにはいかないと、緊張した窯焚きが続きました。気の抜けない「ねらし」の段階です。オルトンコーンも3本とも倒れ、一安心です。
温度が高くなると、熱さを避けるために、ほとんど誰かわからい格好になります。写真2枚目は、A姉妹です。木工が専門のメンバーが、薪を渡す時に便利な棚を作ってくださいました。「燠掻き」をして(写真3枚目)窯の中の燠の状態を整え、タイミングを取りながら、薪をくべていきます。
幾度も焚き口の崩落の補修をしたり、人手の少ない夜間もありましたが、4日目以降は1250℃前後の温度帯をキープ、還元焼成の黒い煙が青空に立ち昇る様子を見て、美しいと思う余裕がありました。
5日目(25日)の最終日、昼間になると参加者が増えます。写真2枚目は、木っ端袋を燃やしているところ、薪束を綴じていた針金の輪っかをくくる人もあり、作業土を大量に作って窯を閉じる準備は、人手があるとワイワイと和やかです。予定通り16:00に、窯を閉じました。
「穴窯焼成」あぶり・窯詰め
「粘土カフェ」の穴窯焼成の作品持ち込みの次は、「窯詰め」の前日12月9日(金)午後から、窯の湿気を取るための「あぶり」を行いました。参加者は5名、大量にある木っ端を燃やし、お芋もおいしく焼けました。
翌10日(土)は、参加者6名で、窯の掃除をした後、奥の棚に作品を詰めました。(写真3・4枚目) 奥には、赤土の作品を主に詰めました。私の作品には、藁を巻いています。穴窯の内寸は、約横幅135cm奥行250cm、上から見ると長方形です。高さは、入口付近は110cm、段々低くなり(床が3段階に高くなっていき)奥は70cm、屈んで二人がやっと入れる広さです。窯から出ると、足がガクガクしました。
窯の外では、棚板の汚れを落としアルミナを塗る人、童仙傍で作業土を作る人、扉の重りを調整する人、藁を切り耐火モルタルと混ぜて窯のひび割れなどの修繕をする人、さらに、アトリエ内では賄いをしながら、薪ストーブの薪くべをする人もいます。
11日(日)6名、12日(月)私のみ、17日(土)の夜2名で、中の棚(写真3枚目)、前の棚と棚前(写真4枚目)の「窯詰め」をしました。棚前には大きめの作品が並び、火袋の両脇は薪が当たる可能性もあり、ほとんど私の作品です。18日(日)は、参加者10名で、焚き口を作り(写真5枚目は途中)、扉を、重りとのバランスを取って設置しました。また、薪棚から窯の傍に80束ほどの薪を運び込み、「窯焚き」準備が完了~!しました。
11月の活動
11月末の奈良学園(郡山校)書道室の黒板(スライド式)です。上の12枚は、生徒(高校1年)の「隷書」による創作作品、サイズは半切三分の一です。下は、「篆書・隷書・草書」の学習をしてきたので、この3つの書体で<和気>と、私が書いたものを示しています。各自が好きな語句を、『五體字類』などの字書から「集字」し、3つの書体(「楷書・行書」以外)から好きな書体で、小さなカレンダーに書きましょう、という授業です。創作ですから私の手本はもちろんなく、カレンダーは1枚しかないょ!と言うと、(1枚31円ですが)大事そうに、真剣に取り組んでくれていました。
1枚目の3点は、高校生のカレンダー(草書・隷書・篆書の作品)です。2枚目の2点は、行書を学習中の中学1年生の作品です。中学生は、書写の授業ですから、手本を見て書いています。カレンダーを書く頃になると、今年の授業も終わりです。
秋の京都
休んでばかりのお茶のお稽古ですが、11月27日、教室の親睦会に参加しました。早朝、バスは奈良を出発、この秋の特別公開で人気の「旧三井家下鴨別邸」に待たずに見学するためでした。明治から大正期に整えられたという大規模な屋敷は、茶室もある広々とした苔地の庭園と一体となって開放的で、3階の「望楼」からは、鴨川や東山の眺望を楽しむことができました。写真2枚目は、2階からのお庭の様子です。
立ち寄った和菓子屋(俵屋吉富)さんには、和菓子文化を伝える資料館があり、お抹茶をいただきました。写真3枚目は、「二畳台目中板」の茶室です。
続いて訪れた「妙心寺」は、12万坪の境内に七堂伽藍と46もの塔頭のある広大な禅宗寺院、法堂(はっとう)の鏡天井に描かれた狩野探幽の「雲龍図(八方睨みの龍)」は、直径12mもありました。
公開されている3つの塔頭の内の1つ「退蔵院」に拝観しました。こちらも季節限定特別拝観中で、「退」は陰徳を積む意、など副住職さんのお話も興味深く拝聴しました。襖をあけると「隠れ茶室」のある書院で、妙心寺門前の料亭「阿じろ」の精進料理を、秋の風情に彩られた池泉回遊式庭園内の茶室でお抹茶をいただきました。方丈(通常は非公開)から枯山水庭園「(狩野)元信の庭(写真3枚目は一部)」を鑑賞、床には有名な国宝「瓢鮎図(ひょうねんず、写真4枚目、模本)」が掛けられていました。これに因んだ瓢箪とナマズ(中国では鮎と表記)の意匠を、私はあちこちに見つけました。
墨香展
11月26日(土)~28日(月)、奈良女子大学書道部は、学内にある「記念館」にて、「墨香展」を行いました。顧問の尾山慎先生・他大学の学生・院生、1回生から4回生までの部員29名と私の総勢33名による、48点の作品を展示しました。
写真2枚目は、「記念館」2階講堂を入った正面の展示風景、左に「100年ピアノ」があります。写真4・5枚目は、講堂入り口側の展示の様子です。会場中央に、机上展示2点をずらりと並べました。1つは、副部長が空海の国宝『聾瞽指帰(ろうこしき)』の断簡を全臨した巻物(写真3枚目は冒頭)、もう1つは、2回生が黄庭堅『李太白憶旧遊詩巻』を臨書した折帖(写真6枚目は冒頭)です。1・2回生は臨書作品が多く、上回生になると創作が増えますが、いずれも、キャプションのコメントには、作品の説明や思いを書いています。(たとえば、鄧石如『隷書崔氏五座右銘』、「大伴坂上郎女歌三首」 ) 臨書は何を書いたかという内容の理解、創作は今の自分が何を伝えたいのか大事だと、指導しています。
いがぶら
第3回いがぶら(伊賀ぶらり体験博覧会 http://igabura.com )は、伊賀市観光戦略課とまちづくり伊賀上野主催の地域イベントで、10月1日~12月4日までの開催です。今年のプログラムには112の盛りだくさんの催しがあり、その41番に、私が所属するNPO法人 Arts Planet Plan from IGA の「本格穴窯焼成で作陶を楽しもう!」もエントリーしていました。
11月20日(日)、法人の活動の根拠地(穴窯もある)森田アトリエ(伊賀市西青山)に、7名のお客様をお迎えして行いました。私も案内人の一人となり、「粘土カフェ」のメンバーが指導にあたりました。一日ゆっくりと自由に作陶し、皿・鉢・花入れなど19点の作品が出来上がりました。昼食は、会員手作りの手打ち蕎麦と揚げたての天ぷらを、全員でいただきました。「穴窯でどのように焼き上がるのか楽しみ」「やってみたかった陶芸を初めて体験できた」「伊賀にこのようなアートの活動をしている所があることを今まで知らなかった」という感想をいただきました。この度の取り組みを通して、法人活動の輪が広がるといいのですが。
「穴窯焼成」作品の持ち込み
11月19日(土)は、NPO法人「Arts Planet Plan from IGA http://www.appfi.org 」陶芸自主活動グループ「粘土カフェ」穴窯焼成の、作品の最終持ち込み日でした。会員13名の作品262点と、会員のお友達や教え子さんなど28名2団体の作品、合計379点が集まりました。
皿・鉢・カップ・壺・花入れ・人形・オカリナ・箸置き、写真のようなオブジェや電動ろくろで成形した大鉢など、色々な作品があるのが、私達「粘土カフェ」の特徴でしょう。陶芸作家さんの窯のように、同じものがいくつもはありません。
こちらは、私の作品です。窯にいっぱいの作品が集まるか、予想がつかず心配でした。心配していても始まらない、私にできることをしょうと思って、100点以上作りました。窯の容量に対して持ち寄った作品が多く、入らない時は、私の作品を減らすことにすればいいと思っていました。
1枚目は、赤土の作品、一部のものには藁を巻きます。窯の奥の棚に入れる予定です。2・3枚目は、主に花入れ、赤貝の上に横に寝かせて窯詰めするもの、火袋の脇に置くものなどです。4枚目は、脚付きの皿、5枚目は、小物です。一部のものに志野釉を掛けてみようと思っています。どこに置くかにもよりますが、還元がかかれば白、酸化なら赤茶色になるようです。
書道パフォーマンス
奈良女子大学の学園祭が11月3日(木・祝)~5日(土)に行われ、初日の野外ステージのトップを飾って書道部が出演しました。約縦3m横6mの2枚の用紙に、書道パフォーマンスを披露しました。
今年は1~3回生の23名が参加、昨年同様2回生が中心となり、夏の合宿あたりから曲選びや紙面構成の案を練り、後期授業が始まった10月から放課後集まって練習をしていました。準備や片付けの手順と立ち位置などを、3回生のアドバイスを受けながら共に作り上げ、私はダメ出しをするだけなんです。1枚づつ書き上げると、予め両端に取り付けていた物干し竿をグッと持ち上げます。歓声が沸き起こり、カメラを撮る観客に、私は感動でした。部活動ならではの見事なチームプレーだったと思います。
10月の活動
自然の恵に感動することの多い季節になりました。お茶のお稽古に行くと、茶室の床には、私の掛け花入れに秋らしい実が飾られていました。2枚目の写真は、4cmほどの小さな立体造形物、生物の先生に見せても何かはわからなかったのです。穴窯の法人活動をしている伊賀市西青山のアトリエの林で、4つ見つけました。こっそり作者(虫?)の制作現場を見てみたいものです。
3枚目の写真は、伊賀焼の窯元 長谷園(伊賀市丸柱)を見学した時のもの、16連房もある登り窯です。江戸時代天保3年(1832年)から昭和40年代まで稼働していたそうです。古い窯を見ていると、造った時の様子やそこで生き生きと働いた人々が目に浮かび、繰り返し行なわれた営みの、苦労や喜び、工夫や楽しみが伝わってくるような気がします。
写真は、金継ぎの近作です。1つ目は、江戸末期の歌人で陶芸家の太田垣蓮月の作品、ひびが入っているので骨董屋さんが安価で売ってくださったもの(贋作かもしれません)、いつか自詠の和歌を書きたい、陶芸もしたいと蓮月に憧れていた学生時代に購入した1点です。修復できるとは、当時は思ってもいませんでした。他に、自作の墨床・印盒です。
香雪美術館(神戸市御影)で、「没後25年 画家 中川一政の油彩・岩彩・書・陶芸 創作への情熱」を見に行った時、展示の1つ目、唐津風の抹茶茶碗が印象に残りました。大きく縦に割れた部分を大胆にも黒漆で継いであることで、インパクトのある一政の茶碗になっていたからです。
10月の一番大きな仕事は、「大仏書道展」の審査、看板・賞状・講評を書き、展覧会当日は奈良女子大学書道部員も一緒に、搬入・受付などのお手伝いをしたことでした。また、2つの大学の書道部も学祭に向け、活発な活動を行いました。30日は、奈良学園大学(奈良市中登美ケ丘)の学祭があり、書道部員(6名)の共同作品「夢花火」を含む15点と、有志の先生方(7名)の作品による書展をしました。
筆で書くものを依頼されると、どんなに忙しくても書くのが使命のように感じている私は、日本中国学会のめくりを40枚くらい書いた日もありました。(写真1枚目の看板は、田上惠一の揮毫) 仕事帰りには暗くなるまで、奈良女子大学の学祭(11月3日)に向けた書道部のパフォーマンスの練習にも行っていました。たくさんの書道の仕事ができて、嬉し いことだと思っています。
大仏書道大会
平城遷都1300年祭の記念の年から始まった「大仏書道大会 ~書くことは楽しい in 奈良~ 」は、私の遣り甲斐のあるボランティア活動、今年7回目となりました。主催は、万葉蹴鞠の再現など奈良らしい文化の伝承と普及に尽力されているNPO法人「奈良21世紀フォーラム http://nara21cf.org/blog/ 」です。全国の高校生・大学生・大学院生(これに準ずる年齢の若者)を対象に行なっています。
※事業内容 ※募集要項 ※審査基準
10月4日(水)予備審査、8日(土)本審査会を行い、特別賞7点を含む入選作品100点を選び、10月22日(土)・23日(日)、東大寺大仏殿西回廊に展示しました。23日は、同じく西回廊に於いて席書会を行い、高校生・大学生31名が参加しました。 ※朝日新聞の記事
講評 |
講評 |
講評 |
講評 |
講評 |
講評 |
講評 |
全国から寄せられた作品は、1300点余り、若者たちが、筆を執って書いてくれている姿を思うだけで、嬉しくなります。形式やパターンに毒されている私などには、とても書けない作品に出会うことができ、毎年、どんな作品が届いているかと楽しみにしているのです。
写真は、今年の特別賞の作品です。各自に書いていただいているコメントをそのままキャプションとし、その脇に、私が書いた講評を添えています。技術優先の公募展にはない審査基準<作者の思いが豊かに感じられるメッセージ性を重視>の観点を、感謝をこめて、伝えたいと思いました。
野焼き
夏に「陶芸の森(滋賀県信楽町)」で参加した「ミニ窯」講習会の折に、「野焼きフェスティバル」のご案内をいただき、10月1日の焼成と、翌日の窯出しに参加しました。渡された粘土2kgで、壺を1点作り、指示通り生渇きの時に磨き、素焼きして届けてありました。
窯詰めは、仕上がりを左右する大切な作業ですから、確認しないわけにはいきません。1枚目の写真のように、作品は重ねず、おが屑で斜めに置かれていました。廃材を一面に置いた後、火入れは、「信楽まちなか芸術祭」のオープニングイベントとして行われたため、たくさんの見物の方々やぽんぽこちゃんも応援に来訪です。最高温度は800度程度とのことですが、窯焚きは穴窯とは違った熱さを感じました。焼成時間は3時間、トタンをかぶせて終了です。下段の写真は、窯出しの様子です。割れた作品はほとんどなく、おが屑に埋もれていた部分は、黒陶のようになっていました。
9月の活動
二学期が始まりました。高校生の授業では「大仏書道大会」出品の作品制作に取り掛かり、中学生は「行書」の学習を始めました。「風と土のふれあい芸術祭 in 伊賀」から、<芸術の秋>がスタートしました。書道のイベント、美術館・社寺での展覧会、知人の個展・グループ展が続きます。
写真1枚目は、田所尚美さんの陶芸作品によるインスタレーションです。古民家ギャラリー「五風舎(奈良市水門町)」全体を作品に取り込んで、年に1度の個展をされています。3年前のこと、時々立ち寄るこの場所で、斬新な現代美術の展示に衝撃を受けました。突然の出会いから、私は彼女のファンになりました。
2枚目の写真は、水島弘一・石根(いわね)父子と、東大寺別当になられた狭川普文師とその父上との「四人展」の会場「アトリエやま(京都府木津川町鹿背山)」、彫刻家 水島家の一角です。3000坪の敷地には、天井高が普通の2倍はあるこの建物以外に、工房棟がいくつか、登り窯もあり、壁面には乾漆像・陶器や絵画、野外のあちらこちらにも作品が置かれていました。
風と土のふれあい芸術祭 in 伊賀 2016
9月中旬、伊賀米の収穫の頃になると、伊賀市の中山間部に位置する過疎の山里は、多種多彩なアートの祭典で賑わいます。今年も矢持地区の皆さんと共に「風と土のふれあい芸術祭」を開催しました。
私は、この芸術祭のために特に作品を作ることはなく(看板や掲示物を書きますが)、近作の中から出品しています。今年は、スタンプラリーが行われたおかげで、「あみだ堂」まで歩きました。(写真3・4枚目) 準備に追われていた身には忙中の閑、雨上がりの山道は一段と緑深く、思いがけない異空間が広がっていました。写真5枚目は、下ってきた時の矢持の景色です。この豊かな自然と、ジャンルの異なる作家さんや地域の方々、ご来場の皆さんとの交流から、元気をもらっています。
この芸術祭は、「アーティスト・イン・レジデンス」、2日間の「アートフェア(販売・ワークショップ・舞台発表)」、旧矢持小学校の内外を会場とした「風と土のかたち展」から成っています。9月18日(日)~25日(日)まで行われた「風と土のかたち展」には、48の個人・団体が出品しました。
写真はその一部です。左から、工芸作品を主に展示した2階の和室。廊下には立体作家 内山泰義さんのくるくる回る赤い風車、通行人はステージでダンスを披露してくれた子供達です。葉っぱをモチーフにした作品は、彫刻家 上野政彦さんの「残った色 -イチョウ- 」、素材は半透明シートフィルムだそうです。また、プール跡には、廃校になった小学校5校と地元に1つある青山小学校のジオラマの展示、地域の活性化を望む地元の有志と小学生達による陶芸作品です。屋上には、美しい景色を背景に、版画家 松谷博子さんの版木が置かれていました。
「風と土のかたち展」に、私は11回目の参加です。作品の1つは、「金継ぎによる修復の仕事」と題した立体2点です。太い首の花器は、焼成中に薪が当たって穴ができた一部と胴のひび、後から割ってしまった口の欠けを修復しています。(写真1~3枚目) あけびの蔓で持ち手を編み、あけびを載せた菓子器も、割れ・欠け・ひびを修復しています。
どちらも、漆を、塗っては砥ぎ、塗っては砥ぐ作業の繰り返しで、時間がかかりました。元の作品に戻す修復というより、別物になる面白さが金継ぎの魅力だと感じています。
もう1つは、「田上早百合の壁 2016」と題した平面の作品です。昨年に引き続き、和室の1つの壁面全体を使わせていただきました。5月の「墨翔展」の作品から3点と、陶芸作品2点で構成、会場周辺の野の花を摘み、自己流で生けています。
展示方法や表具の色など、書道仲間とは違った見方の批評をたくさんいただき、とても勉強になりました。屏風の下に木片を置き、少し高くしているのも、仲間のアドバイスです。貼り混ぜの屏風は、もっと冒険できそう~、やってみたい構想が、まとまりもなくですが、湧いてきました!
8月の活動
8月は、夏休みならではの勉強会や合宿、帰省など、仲間や家族と過ごしました。写真は、その折々の蓮の花、歳のせいでしょうか、目に留まりました。午前中は開いているようでした。
帰省中、母が指導しているお茶のお稽古で「且座(シャザ、裏千家の七事式の中の1つ)」をやっていたので見学しました。客3人と、東(亭主)、半東(亭主の補佐)の5人揃って催す茶事で、それぞれの役割りが決まっています。客は順番に、花を生け、炭をつぎ、香を焚く、そして主客ともに香を聞く、続いて、東が4人分の濃茶を点て、半東が東に薄茶を点てる、という流れでした。
その時その場に従って主となり客となる、人生のそんな場面で自分の分をわきまえることにも通じるとか・・・。写真の右にあるレモンは、「にらみ菓子」または「捨て菓子」ともいって、且座では、お菓子をいただきません。拝見はありますが、「ご銘は?」などと尋ねることもありませんでした。いつもお薄を点てるだけの私です、お芝居を見ているようでした。
写真は、8月25日、奈良市東福祉センターで「子育てスポットすくすく広場ぷーさん」の「楽しく 落書き」というボランティアをした時のものです。足の裏にも書いてみたい気持ち、いいなぁ~。囚われない伸び伸びした線を引くことを、何時から忘れてしまったのかと、幼児たちと遊びながら、気付かされたことは、この夏一番の収穫だったかもしれません。長期休暇に感謝です。
9月からは、2ヶ月間会わなかった生徒達が、二学期は書道室でどんなことをするのかと、楽しみにしてくれるような授業を展開したいです。
奈良女子大学書道部の合宿
今年の奈良女子大学書道部の合宿は、8月27日(土)~29日(月)、高野山の「真田坊 蓮華定院」で行いました。高野山は「一山境内地」の独特の宗教空間、117ヶ寺があり、その内の52ヶ寺が宿坊をしているそうです。学生達にも人気があり、私は4年ぶり5回目でした。
「蓮華定院」は、鎌倉時代の開創です。関ヶ原の戦い後、真田昌幸・幸村父子が仮寓していた寺院で、現在の本堂・庫裡は真田家による再建(写真2枚目の中央の楓も当時から400年)、六文銭や結び雁金(かりがね、写真は襖のもの)の意匠が所々に見られました。写真4枚目は、上段の間にて(上々段の間には肖像画など)、真田家ゆかりの寺宝も多く伝わっており、写真5枚目は、その1つ、幸村の焼酎を請う書状の一部(志やーちう)です。
1回生~4回生23名、院生1名、他大学の学生1名が参加しました。精進料理をいただき、私も、学生達と夜遅くまで書道三昧の楽しい3日間を過ごしました。写真は、練習の様子・大広間での合評会の様子・集合写真です。
草木染め
染織作家の友人 松永ゆう子さんの工房「山帰来」は、のどかな山里(伊賀市東谷)にあります。糸を紡ぎ、はた織りをし、どこまで敷地かわからないくらい広い工房周辺に植わっている草木で糸や布を染め、四季折々の自然の恵みの中で暮らしながら作品作りをされています。8月20日、草木染めの講習会をしていただきました。
季節的に、「ねむの木の葉」「赤じそ」で染めることになりました。先ず、植物採集から作業が始まり、枝を落とし、袋に詰めて大きな染織用の鍋で煮だし、漉して染液を作りました。ねむの木の葉は、鉄による<後焙煎>で、渋いオレンジ色に染まり(写真1~3枚目)、赤じそは、錫による<同浴焙煎>で、紫色に染まりました。(写真4~6枚目)参加者8名それぞれの、被染物の素材によって濃淡の変化があり、シルクなどの動物性繊維は色濃く染まることがわかりました。
風と土のふれあい芸術祭 in 伊賀 @ 崇廣堂 2016
伊賀市文化都市協会主催のライトアップイベント『お城のまわり』の一環として、8月11日(木・祝)~14日(日)、「風と土のふれあい芸術祭 in 伊賀2016 」のプレイベントが、史跡「旧崇廣堂」(伊賀上野城の南にある元藩校)で行われました。この会場は、昨年11月にコラボ展をさせていただいた、私にとっては思い出の場所です。21時まで開館(夜間はライトアップ)され、城下町散策のコースの1つとして、たくさんの方々にご来場いただきました。
写真は、入口を入って右の展示風景です。左(大玄関正面)の六曲屏風は日本画家 安藤康行氏、右の3点と中央の水指は伊賀焼作家 新歓嗣氏、赤い油絵は地元の画家 上田(かみだ)保隆氏、奥(坪庭の手前)の青白磁3点は名張市の陶芸家 角谷英明氏、それぞれ著名な作家さん達の作品です。その中に交じって、私の書作(山これ山 水これ水)が並び、親しくお話しもさせていただき、嬉しいことでした。
私の作品は、もう1点、伊賀に相応しいと思って芭蕉さんの言葉と言われている「不易流行」を出品しました。ステンドグラス作家 後藤裕子さんのランプと一緒に展示していただきました。広い会場には、彫刻・陶芸・木工などの立体作品、日本画・洋画・版画などの平面作品、染織やインスタレーションなど、28名の作品58点が展示され、ご来場下さった方々から、すごいすごい!という声が聞かれました。最後の写真は、崇廣堂の北側にある石垣、細長い石が所々に配置されているんです。
夏の合同合宿
私が所属しているアート系のNPO法人「Arts Planet Plan from IGA (伊賀市西青山) http://www.appfi.org/ 」には、2つの自主活動グループがあります。廃材などを利用してアトリエ敷地内に憩いのスペースを建設中の「庵プロジェクト」(写真)と、私が主担当をしている陶芸グループ「粘土カフェ」です。
青山高原近くのため、朝晩は涼しいものの、日中は暑さの厳しい8月11日(木・祝)~14日(日)、自主活動グループ合同の合宿を行いました。新しく参加してくださった方が、学生ボランティアさんを含めて4名あり、参加者は2つのグループ合わせて、のべ41名でした。
「粘土カフェ」の活動は、先ず、不足分30束の<薪割り>を行いました。目標の薪束550束を達成した時には、拍手が起こりました。何より楽しい<作陶会>は毎日行い、たくさんの参加がありました。
窯焚きの安全のために、<窯の扉を改修>と<窯周りの整備>を進めています。写真3枚目は、言われるままに丁寧に水平を取っているところです。扉を支える鋼の枠組みが完成しました。(写真5枚目) 12月の窯焚きまで、さらに良い準備をしていきたいです。
ミニ窯作りと焼成
穴窯仲間からの情報で、「滋賀県陶芸の森 (甲賀市信楽町)http://www.sccp.jp 」でやっている陶芸実技講座「しがらき学ノススメ」を知りました。陶芸の森は、自然豊かな広い敷地に、展示や制作のため建物、登り窯・穴窯などの設備があり、アーチストの制作現場ともなり、一般向けに、たくさんの講座が開講されています。その内の「ミニ窯」に、興味津々で参加しました。
7月3日、1日がかりで「ミニ窯」を作りました。講師の先生は、埼玉から信楽町に来て制作されている若い陶芸家 越沼信介氏、他に「陶芸の森」のスタッフ数名の指導の元、一人当たり道具土20kgを使い、手ひねりで制作しました。参加者の皆さんは陶芸経験者ばかり、慣れた手つきですごく早く、私も早いつもりだったのですが、圧倒されました。乾燥後、「陶芸の森」の巨大なガス窯で、素焼きをしてもらいました。
焼成日は2日設定されている内の、私は8月6日に参加、ミニ窯に入る程度の小さな作品6点を素焼きして持参しました。手前の送風口にドライヤーを差し込み、常時送風しながら、5分おき位に焼成室に叩いて割った備長炭を入れ、1箱分約4時間かけて焼成しました。何でこんな暑い日に、と思いながら汗だくでしたが、窯変も見られ、小さな感動~!夏休みならではのアウトドアの一日になりました。煙が出ないので、自宅の庭でもできそうです。
6月・7月の活動
友人の穴窯「青蛾窯」の窯焚きが、6月中旬、7日間に亘って行われました。写真1枚目は「燠掻き」のタイミングを取っているところ、2枚目は「間焚き(横入れ)」直後の窯の様子です。このような大がかりなものではありませんが、12月に法人活動の陶芸グループ「粘土カフェ」の窯焚きを行うので、その勉強のために、何回も見学に行きました。
窯焚き中のアクシデントに対応できるだろうか、人手は足りるだろうか、特に窯焚きの夜が心配です。夜通し行う穴窯焼成は、一人ではできません。100時間寝ないで動ける薬があったら飲みたい位の気持ちです。そんな不安と向き合いながら、私は、炎を見つめ、窯の音を聞き、穴窯の魅力を体で感じて、根性を鍛えていました。写真3~5枚目は、約一か月後の窯出しの時、覗かせてもらった窯の中の様子と、大量の作品の一部です。
非常勤の一学期の授業は6月末日まで、7月は、2つの大学の書道部に行くだけで、読書と制作中心に過ごしました。
自宅の工房は、台所の隣の土間です。出かける前や寝る前にも、食事の用意をしながらでも、乾き具合を確かめるなど簡単な作業ができます。在宅日は、制作に疲れたら、家事をしていました。また、7月17日・18日には、「粘土カフェ」の仲間と共に、法人活動の拠点となっている森田アトリエ(伊賀市西青山)で、作陶会を行いました。
書作の脇に飾る掛け花入れなどの花器を中心に、水滴・印盒・筆筒・筆架などの文房具、脚付きの皿など、昨年の夏に作っていたものもあります。私の電気窯は小さいので、「素焼き」を4回しました。12月の「穴窯」にたくさん入れたいと思っています。他に、釉薬のテストピースや焼き直しの「本焼き」を1回しました。
こちらは、金継ぎ(本漆を使った修復)の一部です。蒔絵師 杉村聡先生の工房(奈良市西ノ京)に月1~3回通い、1年が過ぎました。「金継ぎ」に出会うことが決まっていたかのように、割れたり欠けたりした自作の作品があります。水滴などの先が欠けたものは、捨てずに済んで、嬉しいです。
写真2~6枚目は、穴窯焼成中に薪が当たり下部に穴があいた花器の、修復の様子です。穴を全て塞がず、かけらを割って窓を作りました。窓の部分の仕上げは、黒や赤の漆も試してみましたが、薄茶色の乾漆粉にしました。ひびの部分は金を使い、部分的に金を蒔いています。写真5枚目は、金の光沢を出すために、鯛の牙で磨いているところです。
奈良女子大学書道部 「June展」
奈良女子大学正門前に、古風でおしゃれな「旧鍋屋交番(きたまち鍋屋観光案内所)」があり、毎年、書道部の展示をさせていただいています。この小さな空間に相応しい展示となるよう心がけてきました。この度の会期は、6月7日(火)~6月27日(月)、「June展」と題して、雨がテーマとなり、2・3回生の共同作品4点と小品5点を並べました。
私は、磁印「五月雨(さみだれ)」を出しました。五月雨は、陰暦の5月にだらだらと続く長雨のことです。丸窓風の色紙に淡墨の雨を引き、押してみました。また、窓と窓の間の狭いスペースには、スイハツを掛け、部長の短冊と私の花器を飾りました。
利休をたずねて!
国宝「待庵」(利休作と信じうる唯一の現存茶室)と、「さかい利晶の杜」に行きたいという母の希望で、2日間のお茶室めぐりをしました。この計画を練っている間に、数寄屋建築家 中村昌生氏の著書に出会い、茶室建築にいっそう興味を持ちました。
1日目に訪れた山崎の地は、丘陵地が平野に迫り、桂川・宇治川・木津川の合流する位置にあるため、古くから交通・経済・軍事の要所でした。なるほど、羽柴秀吉が大阪城を築城するまで、山崎城を本拠地としたことがよくわかる地形です。秀吉は利休を招き、陣中に「二畳隅炉」の茶室を作らせました。茶室「待庵」は、禅寺「妙喜庵」(撮影は入口のみ)の書院の南側に接して移築され、約400年の時を数えました。
間取りや特徴は頭に入っていましたが、若住職の丁寧な解説で、さらに理解を深めました。切り石ではない当時のままの踏石の上に立ち、黒ずんだ荒壁、「室床」の技法、三つに分けられた天井、壁に設けられている窓の細い竹材などを目の当たりにし、たとえようのない大きな感動を覚えました。
「妙喜庵」は府境のJR山崎駅前(京都府大山崎町)にあり、駅の西側は大阪です。「サントリー山崎蒸留所」を右に見て、南西へ徒歩15分、お茶の先生お勧めのお茶室「燈心亭」を訪ねて、「水無瀬神宮」(大阪府島本町)に向かいました。写真の中央奥が御本殿、右が拝殿です。この拝殿左にある木戸から入れていただくと(待庵・燈心亭ともに予約が必要)、神社の境内とは思えない樹木が茂る庭園が広がり、その中に、寄せ棟造り茅葺きの建物が現れました。
外観は田舎屋のような佇まいですが、江戸初期における貴族(公家)好みの代表的な数寄屋書院風の茶室とあって、優美な細工が随所にありました。中でも、茶室の格天井は、十種余りの草木が巧みに用いられた独特のデザイン、それらは灯芯の材料とされることから「燈心亭」と称されたそうです。三畳台目の茶室と三畳の水屋の周りには畳の縁側があり、従って躙り口はなく、開放的です。「待庵」とは好対照な趣、私は茶室の奥深い魅力に引きつけられました。「アサヒビール大山崎山荘美術館」にも行きました。
翌日は、堺市へ。先ず、「茶禅一味」を伝える禅寺として、大徳寺に次いで外せない「南宗寺」を訪ねました。堺を拠点に天下取りをした戦国武将 三好長慶の建立、沢庵和尚により再建、今も大徳寺の高僧が住職を務めておられるそうです。禅寺らしい松を仰ぎ、磚(瓦)を踏みながら、ここで修業をしたという若き利休の面影を追っていました。
写真は左から、総門、山門「甘露門」、天井に「八方睨みの龍」」(内部は、先の2つの茶室同様、撮影不可)が描かれている仏殿、「三つ葉葵」の紋のある唐門(奥に家康の伝説の墓がある)です。方丈には長慶の故郷が描かれた襖絵、故郷瀬戸内の海を思わせる枯山水の庭、利休好みの茶室「実相庵」、利休ゆかりの手水鉢や井戸、三好一族や千家一門と利休の師 武野紹鷗の供養塔など、見所がたくさんありました。
「さかい利晶の杜」は、利休屋敷跡(写真1枚目)に面した西側、晶子生家跡近くに、昨年オープンしたミュージアムです。「千利休 茶の湯館」「与謝野晶子 記念館」や呈茶席などがあり、復元された茶室「さかい待庵」と「無一庵」は、中に入って見学ができました。
「さかい待庵」は、「妙喜庵の待庵」の復元ではなく、古文書を元に、その祖形を考察して作られたことが興味深い点です。前日見た「待庵」の記憶も新しいため、違いがよくわかりました。予習した『山上宗二記』の[関白様御座敷 二帖敷」の図(写真2枚目)には、2畳敷茶室の下に、2畳のスペースが書いてあるので、何だろうと思っていました。「妙喜庵の待庵」の茶室の南には路地があっただけでしたが、「さかい待庵」で、その疑問が解けました!低い塀で囲った坪庭(写真3・4枚目)が復元されていました。関白秀吉は、この2畳の坪庭から躙り口に進んだのですね。
「無一庵」は、秀吉が催した北野大茶会に、利休が作ったとされる四畳半の茶室(撮影可)の復元でした。床の右壁に「墨跡窓」、掛け込み天井に「突き上げ窓」、「楊枝柱」や「胴戸(道籠)」など、じっくり観察しました。
5月の活動
連休に開催した「墨翔とその仲間展」は盛会でした。26名のグループ展のため、私の個展ではお会いできない方々にも見ていただくことができ、励みになりました。ありがとうございました。その後は、工房で穴窯焼成に向けた作陶を始めています。
2つの茶会に出かけました。1つは「春日大社献茶祭」、今年は、官休庵(武者小路千家)の当番でした。写真1枚目は、献茶が始まる前の舞殿、私は、若宗匠のお点前を凝視しました。また、副席(主は相川宗範氏)のお道具は、春日大社とこの季節の故事に因んだものばかり、この日のために練ったであろう取り合わせに、茶の湯の醍醐味を学びました。もう1つは、知人宅での「正午の茶事」です。写真2枚目は、茶室に掲げられたの扁額「浮雲」、田上鐵牛(夫)の作です。寄付きには、私が差し上げた「窯変掛け花入れ」が用いてありました。
薫風かおる5月24日、鈴鹿山脈の麓(甲賀市甲賀町の山間)に陶芸家 加藤輝雄先生のアトリエ「紫岳窯」を訪ねました。この日は、父上にあたる加藤紫山(加藤慈雨楼)の作品を拝見したいという厚かましい願いが叶った嬉しい日でした。加藤家は、「瀬戸十作(古田織部が選んだ名工)」の伝統を持ち、輝雄先生は1938年京都のお生まれ、その14代目です。私達夫婦を歓待してくださるのですから気さくな人柄で、画家の奥様共々、好んで自然の中で生活されているようでした。
居間には「湖城篆」とある扁額「執中」(写真1枚目、落款から昭和23年12月に揮毫)が掛かっていました。紫山は、園田湖城の門弟でした。その業績(磁印や印譜、古印の研究資料としての封泥や著書)のほとんどは、九州国立博物館の収蔵となっていますが、加藤家に残された貴重な品々(写真はごく一部、3・4枚目の磁印は同じものです。5枚目は古銅印を粘土に押した「封泥」)を手に取って見せていただき、お話は尽きませんでした。分刻された印譜や当時の写真などもあり、戦前戦後の印人・文人墨客の交流、高い学究の精神を知ることができました。
「彩色下絵 奥のほそ道抄 大字巻」の展示
4月22日(金)~5月27日(金)まで、「ハイトピア伊賀(伊賀市上野丸ノ内)」3階にあるコミュニティ情報プラザのロビーギャラリーで、「彩色下絵 奥のほそ道抄 大字巻」を展示してくださいました。この作品は、天地90cm・長さ16mの巻子で、昨年11月、史跡 崇廣堂の和室4部屋の襖を外して、畳の上に置いて観ていただいたものです。その時のお客様のご厚意で、この度の展示となりました。
このビルは、賑わいの拠点として伊賀鉄道 上野市駅前に建てられた複合施設、俳句の都「ハイト」とユートピアから名付けられたそうです。芭蕉さんを題材にしたことが、伊賀上野の皆さんに喜んでいただけたのでしょうか。5階からは、伊賀上野城や伊賀盆地の山々が見渡せました。
墨翔とその仲間展
5月3日(火・祝)~5日(木・祝)の連休に、書グループ「墨翔とその仲間展」を行ないました。会場は奈良県文化会館、1階全フロアを使い、A室には主に墨翔のメンバーの作品、B室にはその仲間の作品、ホールと特別室には墨翔メンバー収蔵の書画・拓本を展示しました。「墨翔展」としては33回目を数えるそうです。
写真は、A室入り口から見た左側と右側の会場風景、そしてホール(拓本の一部)です。私は「その仲間」として2回目の参加、昨年はB室に展示でしたが、今年は、A室(ここに写っていない左壁面)に並べてくださいました。
A室の作品の一部です。「葡萄の美酒 夜光の杯・・・」は、お酒大好きな河野通一氏の作品。次の会津八一の歌は、画家になりたかったという早崎蘇石氏の作品。その次は、幅10mもある『妙法蓮華経』を出品した志民和義氏の作品の一部。右端の「ひょっこりひょうたん島」は、楽しい表現を目指す小川起石氏の作品です。
私の担当は、A室の一角8mでした。この展覧会のために書いた新作は4点です。「花は野にあるように」は『利休七則』の一文、淡墨で「埜(野の異体字)」と下絵のように入れました。対幅は、禅語「山是山 水是水」、かなり大きな筆で墨継ぎをしないで、草書・仮名・篆書で書きました。この2点は、福本久代さんが織られた紬に書いたもので、自分で表具しました。十二支の書と印を貼り混ぜにした屏風は、奇抜な色かと心配しましたが、他にも色彩を多用したためか、黄色もよかったなとホッとしたものです。その右に、松尾芭蕉の言葉と言われている名句「不易流行」を、隷書(淡墨)と草書で表現しました。
他に左から、屏風に押した磁印の一部、「水に月」、水盂に野の花、「日くれて天に雲なく、(側面に、春の風なごみてそよぐ)」と陶淵明の詩の和訳を呉須で書いた鉢、穴窯焼成の掛け花入れに野の花、で担当の壁面を構成しました。いつの頃からか、書作の脇に自作の器に花を生けて展示したい!と夢見ていたのですが、近年、このスタイルが定着しました。
写真1・2枚目は、合評会の様子(A室の濵上哲氏、B室の若い仲間)です。写真3枚目は、独特の表現力を持つ大学生の風岡顕良氏の作品(一部を拡大)です。受付には、今年も、私が作った文房具(蓋に猿の摘みのある磁硯、穴窯焼成や鉄絵の水差しなど)を使ってくださいました。
昨年は、先輩達とご一緒出来ることが只々嬉しく思ったものですが、今年は、お茶席にこの禅語を飾りたいと言ってくださる方がある一方、墨翔を脱退された方や遠方から来られた長い関わりのある方などから、厳しい批評もいただきました。何事も深く考えることをせずにやってきた私ですから、受け止める力があるか不安です。しかし、この重苦しい混乱こそが、グループ展に参加した成果といえるのかもしれない、と思っています。
4月の活動
6日(水)から奈良学園大学書道部、7日(木)から奈良学園中学校高等学校(週2日)の授業、11日(月)から奈良女子大学書道部が始まりました。
写真は、高台寺圓徳院の北庭です。多数の巨石を配した桃山時代の豪快な枯山水庭園で、左に茶室が見えます。建仁寺で行われていた「諸流生花大会」は盛大で、花も花器も見応えのあるものでしたが、春の京都は人出が多く、露地を抜け、喧騒を避けて圓徳院で休みました。青蛾窯の小窯(薪窯)の窯焚きと窯出しのお手伝い、画家のアトレエへの訪問、伊賀での薪割り、友人宅でのコンサートに行きました。多方面でご活躍の皆さんから刺激をもらいながら、新年度も楽しく元気に活動したいです。
来月初めにあるグループ展の作品制作は、なかなか気に入った作品ができず、画仙紙の山ができていました。昨年『利休百首』を書いた時は、手紙を書くようにあっさりできたのですが、想いに技術が伴わず、表具に出す時間切れと共に、終了となりました。写真は、表具屋さんに作品を持ち込んだ1週間後、再び訪ねた時のものです。屏風に、裏打ち済みの12枚の作品をどのように配置するかピンで留め、縁回しの色を決めているところです。
屏風の下地の布に、黄色を選びました。私が頼りにしている表具師 吉川春陽堂主人は、客を立てず強気なアドバイスをする方です。「無難な色は面白うない。グループ展ちゅうもんは、目立たなあかん!」と。それが、私の遊び心に響きました。お弟子さん達が作業にあたり、搬入当日、会場に運んでくださることになっています・・・。
ギリシャの遺跡
ポンペイから始まった私の遺跡巡り、この春休みは、あらゆる西欧文化の発祥の地、ギリシャに行きました。
古代ギリシャのドーリア式建造物の最高峰とされる「パルテノン神殿(写真1枚目は北面、2枚目は左右の破風にわずかな彫刻が残っている東面)」は、海抜150mの岩の上に立っていました。この小高い丘「アクロポリス」は、オリンポスの神々を祀った神域であり、要塞でもあったそうです。写真3枚目は前門付近、登って進むと、丘の中央に「パルテノン神殿」があり、エンタシス技法の白大理石の円柱や多用されている湾曲した構造により躍動感があり、気品に満ちていました。柱として屋根を支える6体の女神像が目を引くエレクティオン神殿(写真4枚目)、ニケ神殿、南斜面にはギリシャ最古の劇場(写真5枚目)の遺構もあり、展望台からは、アテネ市内が一望できました。
ドイツの考古学者シュリーマンの情熱的な発掘により、1870年代になって、古代ギリシャ以前(紀元前1500年頃)のミケーネ文明の実在が証明されたそうです。「ミケーネ遺跡」はペロポネソス半島の北東に位置し、アテネからバスで3時間、途中「コリントン運河」を見学しました。やはり小高い丘にあり、メインの遺跡の入口には、向かい合う2頭のライオンの石彫を載せた城門(写真1枚目)があり、石の坂道を登っていくと、円形墳墓(写真2枚目)や穀物倉の遺構を眺めることができました。近くに、出土品を展示する博物館がありました。
写真4・5枚目は、ミケーネ遺跡の内外の広い範囲に点在する蜂窩式(トロス式)墳墓の1つ、シュリーマンが「アトレウスの宝庫」と名付けたそうです。入口上部の三角の下にある石(まさぐ石)は120トンもある巨石、内部は蜂の巣のようなドーム状(直径14.5m、高さ13.5m)で、切り石を積み上げて出来ていました。薄暗い秘密基地のような空間でした。
アテネから北西へバスで3時間半、デルフィ観光の拠点イテアは、美しい港町でした。海は静かで青く澄み、雪を頂いた山々を臨むことができました。
ここから、一面のオリーブ林と青い海を眺めながらバスで30分、パルナッソス山の麓に、世界の中心(大地のへそ)と信じられていた聖地「デルフィ遺跡」はありました。ギリシャ神話にも登場する「デルポイの信託(神のお告げ)」が行われていたというアポロン神殿(写真1枚目)、 各都市の財産庫、劇場(写真2枚目)や競技場跡を見ました。隣接してある博物館には、興味深い出土品の数々が展示されていました。(写真3~6枚目)
写真1枚目は、デルフィから「オシオス・ルカス修道院」へ向かう途中で見られる絶景、アラホバの町並みです。「オシオス・ルカス修道院」は、中期ビザンティン建築の代表的な構造で、イコンや美しいモザイク画で飾られていました。
写真2枚目は、現役のギリシャ正教「メテオラ修道院」の1つです。デルフィから北北西にさらにバスで4時間半、一面の草原にそびえるように岩山が林立し、その奇岩の頂上に、6つの修道院が自然に溶け込むように建っていました。その景観は、圧巻でした。
私が参加したこのギリシャ・ツアーには、人気の「エーゲ海一日クルーズ」が付いていました。船内では陽気な生演奏を聴きながら食事もし、アテネ近海サロンコス湾に浮ぶ3つの島(エギナ島・ポロス島・イドラ島)に立ち寄りました。エギナ島には、港からバスで20分の高台に、美しい「アフェア神殿」がありました。紀元前5世紀の建物で、32本のうちの24本の柱が残っているというのは、数多いギリシャの古代神殿の中でも極めて保存状態が良いそうです。
日本のお城と同じように、遺跡はどこも眺望のよい所にありました。そこに立ち、略奪と崩壊の長い歴史、はるか遠い人々の営み(信仰や願い)に想いを馳せました。ギリシャの国旗と同じ色の、ブルーの空と海も印象に残っています。
3月の活動
奈良学園高等学校(郡山校)の芸術科の授業は、1年次の2時間のみ(書道選択者40名×2クラス)です。彼らにとっての芸術科書道最後の授業は、5人ずつで共同作品を書きました。(この日以外は、机に座っています。)班は8つ、<楷><行><草><篆><隷>の漢字5つと、<仮名><漢字仮名交じり>から好きなものを選び、8つ目の<何でもいい>という班には<筆以外のもので書く>という課題を与えました。事前に相談して提出させた草稿には、私に用意してほしいもの(〇ページ拡大コピー、太筆など)も書くように言っていました。
2文字・4文字の大字、仮名の貼り混ぜ、臨書もあり、写真は一部ですが、2枚目は、青山杉雨「古文曼荼羅」風です。下の段左から、漢字は隷書で「奈良学園に集い 矢田の丘にて学ぶ」、高村光太郎の言葉、変体仮名による「いろは歌」、「羅」は雑巾、「林」は段ボールで書いた様子です。自然豊かなキャンパス内を散策して小枝や、高1は稲作をしたので藁の筆なども登場しました。熱心に書くだけでなく、最後の拭き掃除をする姿を見て、頼もしく思いました。
3月3日で今年度の授業が終わると、にわかに行動的になりました。写真は左から、書のグループ「墨翔」の若い仲間 河野駿君(中央)の作品(大阪教育大学卒業書作展にて)、月ヶ瀬梅林、「紙による造形展」の首藤弘美さんと作品(大阪港の現代美術ギャラリーCASOにて)、お松明が上がる前の東大寺二月堂です。修二会の本業は3月1日から2週間、この時期は毎年、奈良への来客があり、一緒に参拝しています。第三日曜は、今月も薪割りをし、次年度の計画を話し合いました。
その合間に、墨を磨り、筆を執る。24日夜の便で旅行に立つまでに、5月のグループ展の作品の目途を付けなければなりません。このプレッシャーは、ウキウキした春休みに、程よい緊張感を与えてくれていました。
2月の活動
写真は、2月上旬のある日の奈良学園登美が丘高校の黒板です。これまで<中国の漢字>の学習をしてきたので、書体の変遷のまとめです。「樂」の篆書(甲骨文・金文・小篆)・隷書・草書・行書・楷書の8つと、名前を5つの書体で書いたものを示し、それぞれの下には、簡単な創作作品を並べました。その後、<日本の仮名>を少し学習しました。
書斎では卒業証書を書いていましたが、5月の連休にあるグループ展の作品が気になって仕方がありませんでした。折帖の作品に「十二支の書と印」があるのを元にして、12枚の作品を作り、屏風に貼り混ぜにしたいと思い、表具屋 吉川春陽堂さんに相談に行きました。まだ書いていないのに、表具師さんと話していると、出来そうな気持ちになるのが不思議です。屏風を角に置くとして・・・、残りの壁面は、まだ6mもあります。
母と大和の社寺めぐり
富山に住む母は、茶の湯のこととなると奈良に来てくれるので、奈良市主催の「珠光茶会」に毎年誘っています。今年は、奈良市内の8つの社寺で、2月8日から一週間開催されました。11日、母の米寿のお祝い会も兼ね、宇治市に住む弟一家3人と、大阪に住む娘夫婦、息子と私達夫婦の9人で出かけました。
この日の会場は、「法華寺」と「薬師寺」でした。「法華寺」は、もと藤原不比等の邸宅で、光明皇后が建立された尼寺です。裏千家によるお薄をいただきました。写真1枚目は、光明皇后を写したと伝えられる木造「十一面観音菩薩像」が安置されている本堂をバックに撮ったものです。奈良時代の仏像や伽藍が多く伝わる「薬師寺」では、点心と、遠州流によるお濃茶をいただきました。
その後、「東大寺」に移動し、大仏殿の基壇に上がらせていただき、揃ってお参りしました。夕食会まで、少し時間があったので、「若草山」から夕日を見ました。写真2枚目は、弟夫婦と芸大生の姪と鹿です。お茶会の日だというのに、リュックにパンツ姿が定番の3人です。
前日は、母と二人で「春日大社」に行っていました。20年に一度行われる第六十次「式年造替」が行われているからでしょうか、観光客が多くてびっくりしました。今だけ神様が鎮座されている「御仮殿」に参拝し、神様が白鹿の背にお乗りになり天降された御蓋山の浮雲峰(うきぐものみね)を遥拝しました。この時、この御本殿の回廊の山側の屋根だけが、ずらりと美しい丸瓦であることを知りました。新しい発見でした。
お茶会の翌日は、大和郡山市小泉町にある臨済宗大徳寺派の寺院「慈光院」を訪ねました。坂道の表参道から「一之門」、そこから「茨木城楼門」(写真1枚目)に続く折れ曲がった石畳、切り立った土手と茂った木立の参道は、茶室へ
の露地のようです。このお寺を創建したのは、江戸時代前期の大和小泉藩の第二代藩主片桐貞昌(石州)、大名茶人(茶道石州流の祖)ですから、境内全体が茶席の趣です。農家風の書院(写真2・3枚目)では、お抹茶がふるまわれます。
40年も前(まだ学生だった時)、母と法隆寺からレンターサイクルで来たことがありましたが、刈り込まれた庭の木々と見渡せる奈良盆地の借景が、その時と変わらないことに感動しました。植林をし、景観の保全に尽力されていると伺いました。当時まだなかった本堂(方丈)は、昭和59年に完成したそうです。小間の茶室が2つあり、興味深く拝見しました。写真5枚目は、二畳台目の片桐石州の代表的な茶室「高林庵」です。
1月の活動
3日、奈良への帰途、金沢21世紀美術館で「生誕100年記念 井上有一展」を見ました。北陸新幹線が開通し、実家の最寄り駅「黒部宇奈月温泉」から金沢まで35分です。
1980年(亡くなる5年前)、私は、石川九楊氏とお話しされている井上有一氏のお姿を、ただジッと、あまり広くない個展会場で見ていた思い出があります。どうしてこんな線が引けるのか・・・、生き方の心構えそのものが違うようだと、敬愛したものです。≪愚徹≫から始まる代表作の数々、戦争の悲惨さを作品化した≪噫横川國民學校≫は、教科書でも紹介されていますが、真蹟を初めて見ました。顔真卿の臨書(写真3枚目)も展示され、最も広い第11室は、ヨーロッパの大聖堂の天井壁画のようなスケール(写真4枚目)でした。
三学期の授業は、12日(火)から始まりました。
12日夜、奈良女子大学書道部の5名が、奈良ホテルでの某新年会のアトラクションとして、この会のスローガンなど2点の揮毫をさせていただきました。年末年始に何度か集まって、新年最初のこのイベントに臨みました。音楽は、吉田兄弟の軽快な三味線、弓道着を新調しました。監督兼コーチの私は、当日はマネージャーとなり、襷のリボン結びをしたり、撮影をしたり・・・。書道が専門ではない学生達ですが、若さで元気に書き上げました。温かい歓迎を受け、ホッとしました。
17日(日)は、お茶の教室(官水会)の「初釜」でした。和服を着て、異空間に身を置く新年のこの時間は、格別です。茶の湯は、知らないことが多すぎて、もっと知りたい、もっと見たい、魅力満載の世界です。(写真は、茶室のある「白水庵」の露地やにじり口などと、お庭にて)
24日(日)は寒い日でしたが、大阪へ行きました。久しぶりに「湯木美術館」(「淀屋橋駅」から徒歩5分)で、茶道具や古筆「石山切」の茶掛けなどを見た後、「墨翔」の集会に参加しました。昨年に続き、今年も5月の連休に、「書グループ墨翔とその仲間展」があり、その打ち合わせと、草稿の見合いでした。今年は、墨翔のメンバー(5名)と同じA室に展示といわれ、プラッシャーです・・・、あみだくじで、正面の目立つ所になったのですが、入口脇のスペース(L字になった8m)にしてもらいました。角に<屏風>もいいで!と言われ、すっかりその気になっていますが、どうなることでしょう。
「なら工藝館」の作品展
1月22日~24日、奈良市阿字万字(あぜまめ)町にある「なら工藝館」のギャラリーで、「工芸制作体験教室生徒作品展」がありました。「なら工藝館」で行われている教室(奈良晒・仏像彫刻・陶芸・金継ぎなど)の受講生の成果を発表する展覧会です。私は、昨年4月から6回あった「金継ぎ」を受講、その後、先生の工房に通って続けています。
出品した作品は、穴窯焼成による自作の菓子器です。欠けた部分や割れは、焼成中にできたもので、窯出しの時点でボロボロ、捨てずによく置いていたものだと思います。3ヶ所の割れをさび漆で埋めた後、乾漆粉で仕上げた部分(写真1枚目の向こう側)と、反対側には、欠けとヒビを金で仕上げた部分があります。窯詰めの時に藁を置いた跡もあり、取っ手は、友人の染織家の庭の「あけび」で編みました。修復だらけの作品ですが、私の物作りへの想いが詰まっています。
年のはじめに
明けまして おめでとうございます。
「 新年の志」など、若い頃からこれといってありませんでしたが、これからは本を読みたいと思っています。昨年、俳句を書こうと思って『おくのほそ道』を読んだ時、地の文のすばらしさに感激、芭蕉さんの深い教養に触れ、読書という1つのオアシスをみつけた気がしました。身近にいてくださった福本雅一先生も今はなく、お尋ねすることも叶わないとなれば、残してくださった著書を読むしかないのです・・・。偉大な人と本の中で逢える。こんな娯しみを、やっとこの年になって志しています。
新年を、故郷富山で迎えました。年末に少しの積雪を見たものの、暖かい年越しで、元旦は珍しく青空も見えました。迎春準備の万年青(おもと)と松、松は竹の花器に入ります。郷土料理の「かぶら寿司」は、蕪自体も母の手作りです。寒ブリやサバ・サケの身を蕪にはさみ、麹で漬け込んだもので、富山県東部はサケが多いようです。イクラもサケをさばいて食します。
写真3枚目は、1月3日、「黒部宇奈月温泉」駅のホームから撮ったもの、峰が左右にこの5倍くらい連なっているんです!
今年の初詣では、子供達も一緒に、「岩船寺」(写真1枚目)と「浄瑠璃寺(九体寺)」(写真2・3枚目)に行きました。澄みきった静寂な山里にあるこの2つのお寺は、我が家から東北へ車で20分程の所、京都府の南端(木津川市加茂町)にあります。
岩船寺では、高さ3mもある平安時代の「阿弥陀如来坐像」の前で、ここに集える感謝の気持ちを伝えました。「浄瑠璃寺」では、秘仏「吉祥天女像」、灌頂堂の秘仏「大日如来像」も見ることができました。富山には、五重塔や三重塔というものがなかったな、と思うことがあります。見守ってくださる仏像や古い寺院建築が身近にたくさんある所に生活できて、幸運です。